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2006年1月31日 (火)

私の美学――noblesse obliges

Busoni-01

Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

人前でピアノを弾く仕事をするためにかなりの編曲をしたことがあるので、編曲の大先輩としてのブゾーニを私は『心から尊敬し、多くのことを彼から学びました。最近、オルガンを弾けるようになった私は、ブゾーニのバッハ研究の凄さに驚きつつも、バッハのオルガン曲をピアノで弾く必要はないと思うようになりました。それにも関わらず、私はなぜブゾーニを美しいと思うか、すっきりと言えます。彼の作曲や編曲以前に彼自身が①爽やかで、②洗練されていて、③品性と④見識があり、⑤ロマンを持っているからです。その上、ブゾーニは他の20世紀の作曲家には滅多にない⑥noblesse obliges さえ持っています。 私がしばらくビジネスの世界から遠ざかって、音楽の世界だけを見ていた時には気付かなかったのですが、最近、或る経済人から薫陶を受けて、この基本的な6つの要素に気がつきました。私が間接的に言うより、その方に登場して直接語って頂いた方が手っ取り早いのですが、その方は日本経済を支えるために、多忙を極めておられ、音楽学・音楽美学のことなどに余分なエネルギーをお使いになる余裕が全くなく、当面は彼よりも多少暇な私が代弁させて頂きます。私の方が暇とは言うものの、ヒルトン・ホテルのラウンジで英語を駆使して日本語と日本文化についてプライヴェートに教えたり、身体の使い方を教えたりする仕事があって、目下ブログの維持で手一杯です。

以下のことも、上述の経済人からの受け売りですが、上述の6つを持って生きて行くには、そのベースになるものが必要です。それは8つの「」であり、その8つとは、「誠意」「信頼」「愛情」「感謝」「謙虚」「礼節」「努力」「許容」です。上述の6つは、8つの「徳」を陶冶することによって磨かれます。そして、ブゾーニはそれを20世紀初頭において、実践したのではないかと思われます。その結果として、ブゾーニは当代一流の二人の女性舞踊家であるモード・アランとイサドラ・ダンカンから単なる「男」としてではなく「人生の師」として強くしたわれる魅力を持つほどの輝きを持った、素敵な人物になったのでしょう。ただし、私にとって、ブゾーニは「理想の男性」ではありません。そう言えるのは、20年の時の隔たりを経て、現実にブゾーニそっくりの容姿を持っていた「かつての理想的男性(上述の経済人)」と接しているからです。

今時の音楽美学者は、「新しいものこそが素晴らしい」と唱えるのが一般的で、ブゾーニのような「オーソドックス」な人は、「大したことのない音楽家」として片付けられています。「難解=駄作=新しいもの」を作った人だけが「オリジナリティがある」という音楽美学者の決まり文句によって歴史に残される一方、実際に音楽シーンを動かしたブゾーニが、たまたま後世の似非音楽美学者に「作品」を評価されないからと言って、歴史から消されても良いのでしょうか?どんどん新しさを追究した結果、20世紀末のシリアスな音楽の世界がどうなったかを見れば、おのずと21世紀に生きる我々は、別の見方をしなければならないことは明白です。

「現代音楽」と称して、聴くに耐えない音楽を聴かされる演奏会がありますが、あんなところへ行くくらいならディスコ(今はクラブと言うそうですが)で踊っていた方が、余程ましです。我が家には、数百枚のLPがありますが、90%はブラック・コンテンポラリーです。私は、バブルが崩壊しなかったらディスコを経営する予定でしたが、バブルが崩壊して、とてもそんなリスクの大きいことはしていられなくなったので、一旦芸大へ入りました。そもそも日本人に生まれながら、西洋音楽を勉強して「シリアスな作曲家」として後世に名を残そうという発想自体が、私から見ればおかしく感じられます。映画音楽のシーンに進出すれば、上出来です。その意味で、私は坂本龍一が日本の作曲家としては、唯一歴史に残ると思います。実際に、彼が作曲した《戦場のメリークリスマス》は、素晴らしい名曲です。意味不明な曲を作っているその他の作曲家たちは、もっと聴衆のことを考えるべきです。日本における作曲家と音楽学者の「静かな対立」も、私のような「一般的常識」を持つものから見れば、おかしなものですが、当事者たちは必死なので仕方がありません。

ところでドイツ語圏に話を戻すと、シェーンベルクには良い弟子・研究者がたくさんいて、特にアドルノの功績は絶大でした。弟子たちがいかに肯定的なシェーンベルク像を形成したかの経緯が、日本でも2000年の芸大の修士論文になっています。修士論文を書いた人も良く存じ上げていますが、許可を取るのが面倒なので「副題」だけを挙げておきます。副題「肯定的なシェーンベルク像の形成とその歴史的・社会的な背景」です。それに比べると、(私も含めて)ブゾーニ研究をした人は失敗ばかりしています。私は、卒論でブゾーニの《ドクトル・ファウスト》を研究しようとしていたのですが、ブゾーニの言う「113の音階」を帰納して法則をつかみ、演繹した結果、「155の音階」が出来てしまい、それから混乱して《ドクトル・ファウスト》どころではなくなり、1929年に或る数学者が唱えた論を知らずに同じような論を唱える結果になってしまいました。これについては、芸大では数学の出来る先生がおられず、発表しても理解されなかったので、「基礎的な数学」が分かる人たちの集まりがあったら、述べようと思っています。

ひょっとしたら、ブゾーニの《ドクトル・ファウスト》は、ゲーテに呪われていて、ゲーテの《ファウスト》以上のものが出来なかったのかも知れません。あの作品を補筆・完成させたアントニー・ボーモントは大変な努力家ですが「どうして、ブゾーニがたまたま太ってしまった時の写真をカバーに使うかなあ~」と私が嘆くように、センスが今一つ良くありません。逆に写真のセンスが良い、日本の○○先生は、読み急いで失敗しています。私はインターネットを使えるようになって日が浅いのですが、ある日『○○○○・東大助教授による転写の実態』というサイトを見つけました。なるほど、こんなことを自腹を切ってやっている人がいるおかげで、音楽学の世界の不思議な現象が外に出るのだな、と感心しました。それで、○○先生の読み急ぎを嘆いた日々のことを思い出し、私が知っている情報を付け加えることにしましょう。

『フェルッチョ・ブゾーニ――オペラの未来』(みすず書房、1995年)の「参考文献」に、『音楽芸術』誌の1958年4月号から7月号に掲載されたマルセル・グリリ(またはグリル)の「フェルッチォ(←ママ)・ブゾーニ――一つの再評価」、「フェルッチオ(←ママ)・ブゾーニ――ロマン主義に対する反動」、「フェッチオ・ブゾーニ――一つの再評価:オペラに於ける集約」が掲載されていないはなぜでしょう?門馬直美さんの誤訳は散見されるものの、資料から無視しても良いのでしょうか?私は、○○先生を糾弾して追い詰めるつもりはありません。「よくぞ、あれだけの資料をお集めになった」と彼を擁護することさえ出来ます。しかし、マルセル・グリリを無視してはいけません。現在、売られているか否か分かりませんが『新音楽辞典 人名』(音楽之友社、1982年)の480ページから482ページまでに掲載されているマルセル・グリリの記述は、ブゾーニを紹介するものとしては最高です。この『新音楽辞典』は、広くアマチュア向けに書かれているので、ぜひ、お読みください。

1990年以後の日本には、○○先生の他に男女1人ずつ私より先にブゾーニを研究した人がいますが、女性の方はドイツ語を読んでおられず、「ブゾーニの113の音階は3分音によって考案された」などという間違いを平気で書いています。私は卒論でその間違いを指摘したのですが、人目に触れる要旨からは消されてしまいました。「芸大楽理科の事なかれ主義」を目の当たりにしてがっかりしました。私の卒論でまともなところは、その部分だけだったからです。私は、フランス語の発音をあきらめ、きちんとした先生(四津谷孝道先生)の個人指導を受けてドイツ語の基礎を勉強しました。とにかく、ドイツ語を読めない人がブゾーニを研究してはいけません。男性の研究者の方は、誠実にブゾーニのドイツ語の原著に取り組んでおられました。ご本人は「失敗した」と言っておられましたが、3人の中では一番、研究者として優れていると思いました。

さて、○○助教授の件ですが、東大の博士課程を出ていなくても、東大の先生になれるなんて夢があって大いに結構ではないでしょうか?私が彼に言及しているのは、上述した「理想」の経済人が相当な「倫理観」の持ち主で、私も話を合わせるために、アリストテレス著「二コマコス倫理学」を読んでいるところなので、私が「正義を貫くタイプの人間である」ことも、ついでに証明したいだけなのです。「正義」にご興味のある方は、河出書房(1966年)から『世界の大思想2 アリストレレス――ニコマコス倫理学、デ・アニマ、詩学』が出ていますので、お読みください。

ブゾーニ研究をするのに、読み急いだり読み飛ばしたりしてはダメです。現に、○○助教授は一番大事なところで読み急いでいるため、ブゾーニが「ニーチェに傾倒していた」などというひどい誤解をもたらしています。○○先生が読み急いだ、まさにその本を、私もコピーして読みました。ニーチェという単語の下にいかにも急いで引いた線の跡がありました。何らかの意があってブゾーニはニーチェの本を読んでいたことは確かですが、読んだ本全てに「傾倒していた」と書かれては実態と異なります。

誰の蔵書がどのようなものであったか」の追究に熱心な音楽学者の方々にも、忠告させて頂きます。例えば、私が持っている○○先生の本は、下線があちこちに引かれ、ぼろぼろになっています。ニーチェの著作は、父がドイツ人と付き合うための教養として日本語で入手出来るものを全て持っていました。ニーチェについての研究書も死蔵してあります。それらを捉えて「山田明子は、ニーチェと○○氏に傾倒していた」と取られては実態と異なるということを言いたいのです。このような事情を理解しないで、人の頭の中を蔵書によって判断するのは危険なことに警鐘をならした上で、話を本題に戻します。

ニーチェが『聖書の文体をまねているので、まぎらわしいのですが、ブゾーニは「ニーチェ」の文体をまねたつもりはなく、「聖書」の文体をまねて、それを東洋の「仏教」とぶつけて遊んでいるのです。ブゾーニが仏教に傾倒していたことは、他の研究で確かになっています。これから、私はブゾーニが仏教からどのようなことを学んだかについて、調べていこうと思っています。私が、これについて何か書けるようになるまで、かなりの時間がかかると思いますので、このアイディアの出所を明らかにして下さるなら、誰か他の方に研究して頂くこともやぶさかではありません。私は一応、自分なりの「noblesse obliges」を実践しているつもりです。繰り返し出て来る、このフランス語は、ふさわしい日本語が書けませんので、ご面倒でしょうが、辞書をお引きください。 そして、「私の美学」を象徴する言葉として記憶に留めてくだされば、これ以上の幸いはありません。ついでに、私が物事に対してgraceful に対応していることも・・・ちょっと気障かも知れませんが、『「いき」の構造』(岩波文庫、1979年)を書いた九鬼周造はもっと気障です。そもそも、気障でなかったら美学なんてやっていられないのではないでしょうか?

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コメント

おひさしぶりです。今月、○研の家庭教師を全て終了しまして、国家試験に没頭します。ですが、度々ここにはお邪魔する予定です。ではまた。

名前: Y.H | 2006年1月22日 午後 09時42分

Y.H.君へ、あなたの○研での評判はすこぶる良く、私も鼻高々でした。どうも、ありがとうございました。国家試験、頑張ってください。あなたのように素敵な好青年なら、試験さえ受かれば、あとは山のように仕事が取れますよ!僭越ながら、人をたくさん見て来たオバサンが太鼓判を押します。

名前: 山田明子 | 2006年1月23日 午前 06時51分

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