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2006年4月の記事

2006年4月30日 (日)

ボーモント著『Busoni, the Composer』より

(注)これは、Antony Beaumont. Busoni, the Composer(London: Faber, 1985).を、2001年度提出の東京藝術大学音楽学部楽理科卒業論文の付録とするために、試訳したものの一部分です。

序文
 エドワード・デントがブゾーニの素晴らしい伝記を1933年に出版した時、彼はこの作曲家の作品についての詳細を何も書こうとしなかった。作品を「いやしくも適切に扱うならば、・・・広範な音楽的実例を伴い、専門的な様式で書かれた第2巻目を必要としただろう」と説明して。私は最初、本書がまさにその役割を果たすと思い描いた――そして概ね、その通りである。1970年に私は、ベルリン、ケンブリッジ、ワシントン、ヴィンタートゥーア、チューリッヒなどに存在する、数え切れない手稿、新聞や雑誌の切り抜き、未出版の資料を調べ、全体の形式と規模を計画して、仕事に取りかかった。
 ブゾーニの文学的関心は私にとって、特別重要であった。彼の手紙や日記で言及されている本、あるいは台本の原典資料をいくつか参照することによって、文学の世界が作曲家としての彼の作品においていかに支配的な役割を果たしているか、ということが次第に分かって来た。
 つまり彼の作品の多くが、器楽作品でさえ、彼の読んだものに直接触発されていることが発見された。当然このことは、新しい光を音楽の上にしばしば投げかけている。ここで私は、自分がデントとは別の方法を取り、スコアの専門的な側面を考察することに加えて、スコアを文学的・文献学的角度から吟味していることに気づいた。このような分析は時として主観的なことがあり、デントは自作におけるどの言明も「明確な証拠と関係づけられる」と主張出来たのだが、私は必ずしもそう主張するつもりはない。しかし、専門的なデータが提供し得るよりも完全な、作曲家としてのブゾーニの肖像は「明らかな証拠」からのみ立ち現われる。
 ブゾーニが作曲家としては、まだ良く知られていないので、彼の成熟した作品に対して基本的な導入を準備することが、不可欠であると思われた。本書はそれゆえ、音楽構造の詳しい分析よりもむしろ、音楽構造の概略、あるいは方向づけを提供する。しかし、決定的と見なされるようなものではない。本書には、膨大な量の事実情報が付加されている。つまり、本書で論じられた作品の楽譜、及び各作品の(およその)演奏時間に加えて、知られている限りの初演の詳細と手稿の所在が提供されている。ブゾーニの作品の完全な目録も含まれている。言い換えれば、カタログ化された314作品のうち、私は58作品だけを論じた。ブゾーニを良く理解するようになった一般の人々が、いつの日か、他の作品についての巻を要求するということが、私のたわいもない望みである
 統一性を保つために、他の版が既に存在する場合でさえ、私は大部分の翻訳をドイツ語、フランス語、イタリア語から自分で行なった。他人による翻訳は、それらが出てくるたびに、脚注で知らせてある。

(中略)

年表
1866 4月1日にエンポーリで生まれる。
1873 作曲を始める。ピアニストとして初めて公開演奏する。
1875 ヴィーンへ移転し、音楽院に入学する。
1877 リストの演奏を聴き、彼に紹介される。
1878 グラーツへ移転し、その後クラーゲンフルトヘ移転する。
1879 ヴィルヘルム・マイヤー=レミーのもとで作曲を学ぶ。
1881 グラーツでの勉強を修了する。作曲とピアノ演奏のディプロマをボローニャのアカデミ               ア・フィラルモニカから授与される。
1883 《村の土曜日》をボローニャで初演する。ヴィーンへ戻る。
1885 ライプツィッヒとベルリンを初めて訪れる。
1886 オペラ《ジグーネ》に取り組み始める。ライプツィッヒに居を構える。絶えずコンサート・                ピアニストとしての活動を広げる。
1888 ヘルシンキ音楽院でピアノ教師の職を得る。
1890 ケルダ・ショーストランドとモスクワで結婚する。作曲でルビンシュタイン賞を獲得し、                  モスクワ音楽院で教師の職を得る。
1891 ボストンへ移転し、ニューイングランド音楽院で教える。
1892 第一子ベンベヌートが誕生する。教職を辞め、ニューヨークへ移転する。
1894 ヨーロッパへ戻り、ベルリンに居を構える。ヴィルティオーゾ・ピアニストとして成功す                  ることに専念する。
1900 第二子ラファエロが誕生する。ヴァイマールでマスター・クラスを行なう。(翌年の夏                   も行なわれた。)2番目の《ヴァイオリン・ソナタ(彼の「作品1」)》を完成させる。
1902 現代の作曲家たちに捧げられた、ベルリンにおける最初のコンサート・シリーズを指                   揮する。《ピアノ協奏曲》に取り組み始める。
1904 最初のアメリカ演奏旅行を行なう。《ピアノ協奏曲》を完成させる。
1906 『音芸術の新しい美学構想』を完成させる。ヴィーンでピアノのマスター・クラスを引 
     き受ける。《花嫁選び》を作曲し始める。
1907 ピアノのための《エレジー集》を作曲する。新しい対位法への関心が増しつつある。
1909 両親が死去する。《悲歌的子守歌》を作曲する。
1910 一層大規模なアメリカ演奏旅行を行なう。《対位法的幻想曲》を作曲する。バーゼル                 でのマスター・コースを引き受け、そこで彼は《ドクトル・ファウスト》の台本の前半を書                く。
1912 《花嫁選び》が初演される。《ソナティナ第2番》を作曲する。
1913 ボローニャの音楽院の校長に任命される。
1914 ベルリンへ戻る。自作による4つの演奏会を指揮する。《アルレッキーノ》の台本を書               き、クリスマスに《ドクトル・ファウスト》のテキストを完成させる。
1915 ニューヨークに居を構えるが、結局はヨーロッパへ戻り、チューリッヒに隠れ家を見つ           ける。
1916 《アルレッキーノ》を完成させる。《ドクトル・ファウスト》の音楽に取り組み始める。
1917 オペラ《トゥーランドット》及び《アルレッキーノ》が初演される。
1919 チューリッヒ大学の名誉博士に選ばれる。非常に長いイギリス訪問によって、スイス             の隠れ家での生活を終える。 
1920 3つの回顧的演奏会を指揮する。音楽雑誌『アンブルッフ』でブゾーニの特集号が組            まれる。プロイセン芸術アカデミー助成のもとで作曲のクラスを開く。重病の最初の徴               候が現われる。
1922 ピアニストとしての最後の演奏会を行なう。
1923 ヴァイマール及びパリへ旅行する。病気がさらに進む。
1924 べルリンで6月23日に死去する。
1925 《ドクトル・ファウスト》が初演される。

芸術家たちがブゾーニに捧げた言葉

彼の音楽を知らなくても、僕は彼の音楽の価値を信じる。――シュテファン・ツヴァイク

(リストとブゾーニは)両者とも並外れた魔力的な力をもって、常に或る秘密を探し求めていたのだが、その秘密は決して明らかにされなかったか、あるいはほんの僅かな瞬間の空間のために、彼らの目の前できらめきのように存在する場合にのみ、経験されるものであった。――シットウェル

ブゾーニは疑いのない作曲の才能を持ち、まじめな性癖を持っている・・・が、私は次のことを残念に思わざるを得なかった。[彼は]あらゆる点で自分の本性に暴力を加え、どんな犠牲を払ってでもドイツ人になりたかったようだ。――ピョートル・チャイコフスキー

私個人として知っているのは、私の不完全な思いつきを具体化してくれたこと、私の想像力を刺激してくれたこと、そして思うに、私の将来の発展を決定してくれたことである。――エドガー・ヴァレーズ

もし誰かがブゾーニを音楽家としてだけ知っているなら、その人は彼を知ったことにはならない。(そして誰がブゾーニを音楽家として知っているだろうか?)――アルフレート・アインシュタイン

ブゾーニは、新しい音楽の予言者と呼ばれている。しかし、新しい音楽の良心と呼ばれる方が、より適切であろう。――ヴィリー・シュー

作曲家
 最近の音楽史において、ブゾーニほど逆説と神秘に包まれた人物は、ほとんどいない。しかし、道理にかない秩序立った研究は、全く異なる像を明らかにする.つまり人がこれほど厳格な統制を自分の運命に行使したことはまれである.また、これほど自分の信念が一貫し、かつ自分の目的追求に一心であった芸術家と、我々が出会うことは滅多にない。
 彼はフィレンツェからさほど遠くない静かな田舎町エンポーリで、1866年4月1日に生まれた。従って、彼はトスカナ人に生まれ-どこに居ようとも、自分をトスカナ人以外の何者でもないと思っていた。彼の父親フェルディナンド・ブゾーニは、コルシカ島に生まれた旅回りの名クラリネット吹きであり、父親の放浪者的生活が、フェルッチョを生後8カ月の時に故郷から連れ去った。フェルッチョと母親、つまりドイツとイタリアの血が混じったピアニストであるアンナ・ヴァイスは、次の数年間、多少永続的な故郷となったトリエステに移住した。ここで6才の時、彼はピアノと作曲の勉強を、厳格かつ善良ではあるが余り専門的でない父親の監視のもとで始めた。早くも、その経歴のまさに初めから、彼は楽器演奏者としても作曲家としても同等の才能を見せた.つまり、8才で彼がモーツァルトの《ピアノ協奏曲ハ短調》を公開演奏した時、彼はもう自分の名声のために、かなり多くの子供っぽい試みをした。双方の能力において、彼は天性の才能を持っていた。ピアニストとして彼は、幼年期の数年間を[外見上の]並み外れた技量の発達に費やしたのだが、主な影響は、彼がリストを発見したことであった。作曲家として彼は、高度に個性的な様式の発展に向けて勉強した.そこでの画期的事件は、彼がブラームスを発見し、その後で拒絶したこと、及びブゾーニの成熟した作品の根底に在る選ばれた3人の先駆者、バッハ=モーツァルト=リストを確立したことであった。★ [脚注:1919年にブゾーニ自身は‘ パレストリーナ=モーツァルト=ベルリオーズ’を自分の系統であると列挙している。] この2つの分かち難い道に沿った、いかなる点においてもブゾーニの心の中で、自分はまず第一に作曲家であるということに疑念がなかった。子供の頃、彼は父親に利用された.自作や自分のリサイタルに少しばかりの個性を加えた即興の出来る、一家の稼ぎ手たる神童として。聴衆は、彼の若々しい、独創性のない作り事に微笑し、礼儀正しく拍手した.この不幸な少年は、自分の子供時代を、支援してくれる大人達を喜ばせるために努力することに費やした.その結果、この男は後に‘僕には子供時代がなかった’と不満を漏らした。知識に対する並み外れた渇望がなければ、ブゾーニはおそらく大抵の神童と同様、鳴かず飛ばずで終わっただろう。しかし彼は、新たに始めるための驚くべき能力を持っていた.(そのことは占星術師の弁によれば、牡羊座のもとに生まれた人に共通の属性である.)そして我々は、彼の生涯において、何回も復活の段階を観ることが出来る。
 14才の時、彼はヴィルヘルム・マイヤー=レミーのもとで作曲の勉強を初め、(そこでは他の弟子に、エミール・レズニックやフェリックス・ヴァインガルトナーがいた.) マイヤー=レミーはブゾーニに、対位法の込み入った事柄を教えた。2年後、ブゾーニはボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に認められた.その名誉を彼は、若きモーツァルトと分かち持ったことを喜んだ。この時期に彼の音楽は、幼い頃の独創性の無さから脱し始めた.そして《幻想的な物語》作品12 や《中世のスケッチ》作品33 のような作品において、偽りなく創意に富む輝きが現れる。若き作曲家は、非常に多作であった-本書の巻末にある作品目録を一瞥しただけで、作品の大部分が20才以前に書かれたことが分かるだろう。彼が作品を出版し始めたのは、およそこの時期であった。この期間の頂点は、ボローニャ市民劇場における、レオパルディにちなんだ完全な規模のオラトリオ《村の土曜日》を上演したことだった。
 次の段階は、北の方-ライプツィッヒにあった。ブゾーニは既に、バイリンガルであった。家では、ほとんどもっぱらイタリア語が話された.しかし、ドイツ語が公用語だったトリエステで生活した後、グラーツ、クラーゲンフルト、ヴィーンで過ごした年月は、彼がドイツ語を(たとえ突飛なものであろうと)流暢にすることに役立った。ライプツィッヒに居たこの時期は、たぶん彼の生涯において最も幸福で落ち着いたものだったろう。ついに両親から独立し、彼は友人仲間を得た-その中にはアンリ、若きエゴン・ペトリ、マーラー、ディーリアス、アドルフ・ブロトスキーがいた-そして、徹底的にドイツ化された。ブラームスは次のように語ったと伝えられている.‘私は、シューマンが私のためにしてくれたことを、ブゾーニのためにするつもりだ.’そして、ブラームスを通じてブゾーニはハンスリックに会い、彼の支持を得た。1883年にブゾーニは《6つのエチュード》作品16 をブラームスに捧げた。また、ブゾーニの作品は、テクスチュアの新しい堅固さを持ち、由来が非常に明かな語法に重きを置いていた。チャイコフスキーが1888年にブゾーニと会った時、チャイコフスキーは、この若者の才能を絶賛した.けれどもブゾーニが見せたイタリア出自への無関心に、かなりぞっとした。それはブゾーニが認めていたであろう欠陥だった.しかし残念な気持ちを持って.実際のところイタリア音楽が、彼にとっては一種の停滞段階に達しているように思われた.彼を逆の方向に説得したのは、ヴェルディによる1887年の《オテロ》と1893年の《ファルスタッフ》の出現だけであった。
 1888年、著名な音楽史家フーゴー・リーマンはブゾーニに、ヘルシンキでのピアノ教授としての地位を確保してやった。その地でブゾーニはスウェーデン人彫刻家の娘ゲルダ・ショーストランドと出会い、2年後にモスクワで結婚した。確かに、放浪の旅がその時彼を導いたのは、ロシアへであった.モスクワ音楽院のピアノ教授として、またセント・ペテルブルクでのルビンシュタイン作曲賞の受賞者として.賞の獲得は、彼の創作歴の第2段階における成功を決定的にしたのだった。彼は最初のオペラ《ジグーネ、または静かな村》に取り組んでおり、その短いスコアは1889年に完成した。この作品から生まれた最高のアイデアの多くは、ルビンシュタイン作曲賞に提出された作品の中に組み入れられたが、オペラ自体はスコア化されず、上演されなかった。
 ブゾーニは今や、ピアノを我がものにするための戦いに乗り出した。彼は作曲を続けたが、かなり自己批判的になり、自信を失っていった。これ以後、彼の作品はしばしば徹底的な改訂にさらされ、時にはすっかり書き直された。彼はさまざまな編曲をし始め、そのことによって有名になった.そしてまた、ライプツィッヒに対する忠誠の絆を破りもし、2年間をボストンとニューヨークで過ごした。1984年に彼はヨーロッパへ戻り、ペルリンに落ち着いた.ベルリンは彼の故郷であった-途中いくらかの中断があったけれども-彼の死まで。しかし、彼に選ばれた居住地が彼をドイツ人にした、とは言えないだろう。この街に10年間住んだ後でさえも、彼は自分が外国人以外の何者でもないと受け取られていることを悟った.そしてこのことは痛みを伴って確認された.第一次大戦中、コンサートの契約を確保するに際してワシントンのドイツ大使館に助けを求めて接近した時に。もっと傷つけられたのは、多くのイタリア人の態度であり、とりわけ報道では、記者も彼を外国人として扱い始めた。彼は部外者となり、スイスに移住して戦争が終わるのを待つ以外に、事実上、何の選択肢も残されていなかった。
 ベルリンへ戻ることを誘われなければチューリッヒが、生涯の終わりまで彼の故郷のままだったかもしれない。彼が戻って来たのは、この移転が彼に提供する新たな出発のためであった.また彼が音楽生活を再建するに、イタリアでよりもドイツでの方が、大きな可能性があると見込んだからであった。全くのところ、彼の生まれ故郷トスカナに対する彼の愛情は、現実的というよりはむしろ理念的なものだった。彼が可能ならば戻ったであろうイタリア、そして彼が所属することを望んだイタリアは、世界の中心でなければならなかったろう.ルネサンス時代にイタリアはそうであった。たび重なる試みと失望の後、イタリアの本当の状態は、この理想に遠く及ばないことが明らかになった.つまり教育制度は活動停止状態であり、大衆は横柄にも保守的だった.劇場ではプッチーニとヴェリズモ派が最高位に君臨していた.出版界ではリコルディが実質上の独占権を行使し、(かつ、ブゾーニとリコルディの関係は、余り真心の通ったものではなかっ)た。ドイツでは事情が違っていた。ベルリンは前衛芸術の大騒動が起こり、劇場において優れているもの全て、つまり音楽だけでなく文学と絵画の温床であった.ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社の社主オスカー・フォン・ハーゼの中に、ブゾーニは、いかなる作曲家も望み得る最大の忠実さで自分を援助してくれる出版者像を見出した.演奏会場でブゾーニは、すぐに自分の聴衆を定着させ、快適な環境で自分の作品を世に送り出すことが出来た。イタリアへ戻るのに有利な、これらの相当なメリットを無視することは馬鹿げていただろう.そして彼は1913年に一度ボローニャへ帰ってみたが、悲惨だと判明した。周囲の状況が、彼を亡命者にしたのである。
 コスモポリタニズムが多かれ少なかれ、彼に刻印されていたけれども、そのコスモポリタニズムは彼が次のことを悟るのを助長した.すなわち、或る国を他の国から隔てている、表面的に威厳のある国境が、いかに視野の狭いものであるか.そして彼は、普遍的な音楽、つまり地理的あるいは歴史的な区別を少しも知らない音楽、政治的あるいは宗教的な違いを超越した芸術-‘善悪を超えた[善悪の彼岸の]’芸術という概念を形にし始めた。
 『音楽の新しい美学試論』という彼の本が1907年に出版されてから、彼の生涯の終わりまで、ブゾーニの一つの目的は、この普遍的な音楽の性質を定義し、自分を可能な限りそれに近づける航海に乗り出すことであった。彼は、そのような旅が取らなければならないであろう形を予見した.つまり、探究の旅がアレゴリーの形で示される主要作品は、最後に来なければ気が済まなかった。そのような作品は、舞台のために書かれなければならなかった.そして彼自身以外の誰も、そのためのテキストを書けるなどということは全くありそうになかった。さらに、そのような作品は、彼のあらゆる業績の本質を要約しなければ承知出来ないだろう.それゆえ、完全に自由な実験という準備段階が要求されるであろう。1907年に《ピアノのためのエレジー》から出発して、ブゾーニは自分の新しい音楽の要塞の防壁を組み立て始めた.そして自分の舞台用アレゴリーの最初の表現として、彼は《花嫁選び》というコメディを作った。このオペラの主人公レオンハルトは、ブゾーニが投影された自伝的かつ神秘的な人物の最初の具体化であった。他にも多くの人物が、最後の全てを包括したオペラのために検討された.その中にはメルラン、さすらいのユダヤ人、ドン・ジョヴァンニ、レオナルド・ダ・ヴィンチが含まれる。最終的に、計画を何回か変更した後、またゲーテをものともせず、ファウストに落ち着いた。
 ブゾーニは非常に早いペースで、どんどん進み始めた。彼は調性と規則的なリズム構造の障壁を壊した。シェーンベルクと同じくらい声高に、不協和音の解放を宣言した.将来の音楽における機械装置、及び新たな楽器の必要性を口にした.新しいポリフォニー様式を確立し、記譜、新たな音階、微分音の新しい体系を提唱した。その後、戦争がやって来た。
 それはブゾーニの計画を打ち砕き、彼のあらゆる野心を挫折させる大打撃であった。それにもかかわらず、しばらくの間、彼は奮闘し続けた。1914年のクリスマスの間に、彼の素敵な寓意劇のテキストがついに明確化し、彼は《ドクトル・ファウスト》の台本を携えてアメリカへ飛んだ-そして彼のブリーフケースの中には、他のものはほとんどなかった。しかし戦争は、彼の音楽様式に根本的な変化をもたらした.ほとんど10年に渡って彼を駆り立ててきた研究への激しい衝動を弱め、新たな瞑想性と思いやりの感覚を引き出して。ゆっくりと苦しみつつ、彼は逆の運命へ効果的に転じる方法を見つけた.つまり彼は、自分の様々な試みを統合する仕事が、おそらく彼の望んだより早く、今や彼に与えられ、かつ、今や《ドクトル・ファウスト》のスコアに取り組み始める境遇にあることを悟るようになった。1919年、彼は友人のH.W.ドラーバーへ、自分自身のためだけでなく音楽の世界全体のために、その時、心に描いていた過程を書き送った。
 
 多くの実験が、この若い世紀で成されています。今や、私たちの達成したもの全てから-古いものでも新しい  ものでも-何か永続性のあるものを再び形作る時です.熟練した創作と音楽を作る喜びがもう一度、自分のものとならねばなりません。余りにも多くの、煮え切らないもの、憂うつなもの、主観的なものが存在しすぎました。不必要な雑音も。1[後注:H.W.ドラーバーへの手紙、1919年4月9日]
 
ブゾーニは、自分が若い古典性と呼んでいる概念を発展させた。そして‘目標’と見出しが付けられ1920年と日付が入れられた覚え書きの中で、彼はこの最終段階の指針を列挙した。 
 1.性質:若い古典性(‘完璧’)  2.形式:普遍的な領域としての劇場
  3.手段:旋律とポリフォニー、1/3音  4.体系的進歩の理論

 多くの無意味なことが、若い古典性について語られて来た.そして若い古典性は、大抵、新古典主義と混同されている。二者の間には(かなり洗練されていない)区別がある.つまり、前者は音楽と音楽創作の美学に他ならず、それによって無数の多様な音楽様式が与えられる.後者は、これら多くの新しい様式の一つである。ブゾーニは、パウル・ベッカーに次のような手紙を書いた.
 
 ‘若い古典性’という言葉によって私は、先行する試みのあらゆる成果に関する習得、選り分け、活用という意味のことを言いたいのです.つまり、堅固で美しい形をとったそれらの結合...しかし、この方法は、まだ認められていない多数の考えに基づくべきです...音楽の単一性という概念...動機労作の最終目的、及び女主人公としての旋律  を再び取り戻すこと...‘官能に訴えること’からの脱皮、及び主観性の放棄...晴朗さ の奪回...無条件の音楽。2[後注:パウル・ペッカーへの手紙、1920年1月。フランク フルター新聞にて、1920年2月7日に公開。The Essense of Music and other papers に 再録(伝記参照)] 私は古典性を、従来の古典主義から区別するために‘若い’という言 葉の重要性を強調しました。3[後注:ラファエロ・ブゾーニへの手紙、1921年6月18日]

 この新しい客観性[客観的実在]について、ブゾーニはレオナルドと一緒に、こう言ったことだろう.‘数学者でない人は、私の書いたものを読むべきではない。’そして彼は、アレクサンダー・マルコムによって1721年に書かれ、世間に知られていない英文の音楽専門書の中で、‘音楽は音の科学であり、その目的は喜びである.’というくだりを読んで喜んだ。
 上述した指針に従って、ブゾーニは《ドクトル・ファウスト》を完成する仕事に取りかかった。1917年の夏から死ぬまでの間に、彼が魅き付けられることで、このオペラに直接関係の無いことは、ほとんど無かった。その時までに彼は、ピアニストとして人前に姿を現わすことを最小限に減らしていた.ベルリン、ロンドン、パリ、ローマに範囲を限られた演奏旅行を基本として.また彼は、ほとんど出来る限り頻繁と言える程、指揮者として登場した。しかしながら、戦争の混乱は彼の上に傷跡を残し、1921年には、まもなく致命的であると判明する心臓病の最初の徴候を感じ始めた。最期に、このオペラの一つの場面だけは、まだ彼を避けていた.-ヘレナの幻影-そしてファウストの最期の独白は、その[幻影という]場面からの音楽が繰り返されるはずだったところで断念された。1924年7月27日にブゾーニが死んだ時、彼はこのオペラがどのように終わるべきか厳密に分かっていたけれども、ヘレナのための音楽を、彼が最初にヘレナのための音楽を思い浮かべた12年前以上には、決して記譜することが出来なかった。彼の死自体が、ほとんど象徴的な身ぶりとして起こった.つまり、彼のライフワークは、‘到達不可能な美の理想’を表現するという不可能性の上にのめり込んだのだった。4[後注:ブゾーニの日記、1914年12月23日]
 10年前、彼は予言的に書いていた.

 重要な芸術家の場合、第一期は自分自身を探究する時期、第二期は自分自身を発見する時期です.一方、第三期にして最終的な時期は、しばしば後の発見者の利益を新たに探 索する時期であるように思われます。5[後注:ブゾーニ『平均律クラヴィーア曲集』 第2巻の序文のための下書き、1914年]

   ブゾーニの‘第二期’は、世紀の転換期と一致していた。彼が自らに課した、20世紀最初の10年間における、自分自身を‘発見’する過程は、まもなく重大な変貌を遂げた.つまり若い音楽家の時、彼はブラームス、チャイコフスキー、サン=サーンス、ボイトのような音楽家達と密接な関係があったのに対し、彼は今や注意を、革命的な人物達、例えばシェーンベルク、バルトーク、ヴァレーズの活動に向けた。ブゾーニと同時代のフォーレやプッチーニのような(両者とも1924年のブゾーニの死から、ほんの数週間以内に死んだ)人にとって、自分たちをブゾーニほど根本的に変えることは相容れなかっただろう.そして、ひとは彼の友人であるシベリウスやディーリアスの活動の中に、こうして再び生まれ変わりたいという願望をほとんど見出さない.またブゾーニと同時代の最も偉大なリヒャルト・シュトラウスの活動においても、実際のところ、同様のことをほとんど見出さない。
 利用可能な表現手段に対する不満は、ブゾーニの人生の著しく早い時期に、声となって現れた.つまり、1893年にブゾーニが新しいオーケストラ楽器を要求したことが見られる.-すなわちサクソフォーン、シンバロン[訳注:ハンガリー・ジプシーのダルシマー。ダルシマーとは、小さなハンマーによって発振する台形の弦楽器で、ピアノやクラヴィコードの前身]、フルート属やオーボエ属の全て、ソプラノ・バスーン、サブ・コントラバス、6オクターヴの音域を持つテューブ・ベル-及び他のあまり使われない楽器のいくつかを、交響楽団へ正規に組み入れることを要求したのが分かる。20年後、彼の音楽言語が、こうした刷新に対処するためのより良い装備を施された時、彼はアルト・フルートとバス・フルート、バス・コール・アングレ(ヘッケル・ホーン[訳注:オーボエより1オクターヴ低い楽器。ヴィルヘルム・ヘッケルにちなんで命名] より低い)、6つのシンバロン(3つは弱音器なし、3つは弱音器付き)、2台の半音ハープ、ペダル・ティンパニ、その他、珍しい鳥〈ママ)などを持つようなオーケストラのための作品の数小節を素描しさえした。だが、それは構想に留まった。1919年に、彼は3つの鐘を《ドクトル・ファウスト》のために鋳造させた.このオペラのドレスデン初演に使われるべく。彼が鋳物工場へ、次のように書き送ったことは、特徴的である。
 
 私は楽器の手引書の中で、ボナンと呼ばれている(中国かジャワの)物が存在するのを、 読んだことがあります。ボナンは、枠の内部にワイヤーで吊るされた10ないし12のゴングから出来ています.それらは(カヴァーが付いている場合もあり)、木製のバチで打たれます。あなた方の平鐘に似たものを作ることが出来なかったのでしょうか?そうすれば、新しいオーケストラ楽器を生むでしょうに。6[後注:鐘鋳造業者 H.Rüetschi Arau への手紙、1919年5月30日]

 『新しい美学』の中でブゾーニは、6分の1音を用いるオクターヴの新しい分割を提案した。彼はそのための記譜法を考案し、後にはニューヨークの楽器製造業者に対して、1台の古いハルモニウムを、その音程に適応させるよう委託しさえした。-しかし、彼は新しい音程を自分の音楽には一度も組み入れなかった。同様に、彼のあらゆるオーケストラ・スコアにおいて、我々がともかく見出す最も異国的な楽器は、チェレスタやシロフォーン、バス・クラリネットやハープシコードである。刷新は、ほとんどない!
 これは、彼の人格における最も大きな外面上の亀裂である。しかし、彼は‘体系的な進歩の理論’を持ち、その非常な遅さと細心さにおいて、その理論は潜在的に意味の無い不規則なことや、未知の世界へ盲目的に飛び込むことはない。彼が実際に刷新したことは微妙であり、ほとんど目を見張るようなものは無かった.というのは彼が、既に存在する可能な事柄を、最大限に活用するのに集中することの方を好んだからである。従って、彼は《悲歌的子守歌》の楽器演奏技術や《ソナティナ第2番》の和声語法といったマイナーな新機軸をもたらした。彼の人生においては、過去との完全な断絶として描かれるような一大転換期がなく、主要な革命やセンセーショナリズムもなかった。彼は、まだCメジャーの中で言われるべきことがたくさんあるというシェーンベルクの発言を強く支持した。
 ブゾーニがシェーンベルクと出会ったことは、全くのところ、ブゾーニと[彼よりも]若い音楽家達との関係の中で、最も際立っていた。二人の音楽家は、早くも1903年に手紙を取り交わしていた.だが、最初の重要な接触は1909年に行なわれた。この時、二人は無関係に、不協和音を解放する独自の方法を見出していた.つまり、シェーンベルクは《ゲオルゲ歌曲集》作品15 及び《ピアノ曲》作品11 で一挙に変化して.ブゾーニは(作曲家としては)《青春に》第1巻のパッセージの中で試験的に、しかし(思想家としては)段階の必要性を確信しつつ。同じ結論に達する彼らの方法は、独創性という問題全体に関する彼らの異なる接近方法を示している。ブゾーニは慎重に動き、音楽は‘上へ向かう’小路を探し始めなければならないと書いた.シェーンベルクは目標を持たず、自分の探っていることが自分をどこへ導く可能性があるかについて何の考えも持たなかった。‘私の唯一の目的は、いかなる目的をも持たないことです’と彼はブゾーニに語った.7[後注:シェーンベルクからブゾーニへの手紙、1909年8月24日] そしてシェーンベルクは、革命の混沌とした精神を自分のオラトリオ《ヤコブの梯子》の中で表現した.すなわち‘右へでも左へでも、前へでも後ろへでも、上へでも下へでも-ひとは後先に何があるかを尋ねることなく、どんどん進み続けなければならない。’
 シェーンベルクの作品11の第1稿と第2稿の冊子が1909年6月に届いた時、ブゾーニはすぐにそれらが自分の新しい和声理論を裏づけていることを悟った。それらがなければ《青春に》の‘エピローグ’(及び、その後数年間の同様に際立った音楽の多くは)十中八九書かれなかったであろう。今度はブゾーニがシェーンベルクに『新しい美学』(これは2年前に出版されていた)の一冊を、彼らが兄弟分である証拠として送った。★[脚注:これはシェーンベルクが後日詳細に注解したものと同じ冊子ではない.それは第2版であり、1916年まで表に出なかった。] ‘あなたの『音芸術の新しい美学試論』[訳注:英語に忠実に訳せば、『音楽の新しい美学の概要』となる。ボーモントがなぜドイツ語のEntwurf をOutline と英訳したか疑問。]は私を非常に喜ばせました.とりわけ、その大胆さのために’とシェーンベルクはブゾーニに伝えた。8[後注:同前]

 シェーンベルクはまた、彼らの明白な一致を二つの円の共通部分にたとえた.‘扇形が大なり小なり一致しています-しかし互いに対立し合う他の部分もあります.’9[後注:シェーンベルクからブゾーニへの手紙、1909年8月] そしてブゾーニは交わる円のメタファーよりも接する円のメタファーの方を好んだけれども、原則的には同意した。
 ブゾーニはまた、シェーンベルクが1911年にベルリンへ戻る際に重要な役割を演じた.彼らの友情を最も親密な段階に至らせて。1913年の夏、シェーンベルクは《月に憑かれたピエロ》の私的演奏会をブゾーニのアパートメントで指揮した.(Ch.ⅩⅡを見よ)2~3週間後、ブゾーニはボローニャでリチェオ・ムジカーレの校長職に就いた。ブゾーニのイタリア人生徒の一人であるギド・ゲリーニ[またはグイード・グエリーニ]は、次のように思い出を語っている.

 シュトラウスとドビュッシーの和声言語を消化するまでに進歩したと考えていた我々に対し、彼は初めてシェーンベルクの理論を明らかにした.そしてまた、理論の逸脱、発展、可能な事柄を示した。10[後注:Guido Guerrini:‘Ferruccio Busoni Maestro,’Rassegna Musicale, フローレンス、1940年1月(伝記を見よ)]
 
 3年後、若い古典性という概念を形にしようとした段階で、ブゾーニはまだシェーンベルクを賞賛していた。彼はライヒテントリットに尋ねた‘あなたは分かっていなかったですか......シェーンベルクのような人物が音程を書き記す際の苦労の多い寸法[測定]を-他のどんな音もシェーンベルクを悲しませるでしょう。’11[後注:ライヒテントリットへの手紙、1916年1月6日。ブゾーニは1915年と誤って日付を入れている] しかし、その時までに、不協和音に対するブゾーニの概念は‘鳴り響く宇宙’という彼の見解の本質的な部分になっていた.一方、シェーンベルクは、《ピエロ》と《4つの歌》作品22以来、少しも前進していなかった.そして約7年間は、他の楽譜を出版する予定がなかった。ブゾーニがライヒテントリットに宛てた手紙は、ブゾーニが不協和音と自然との間に感じた親密な関係を、さらに重ねて暗示している。

 音楽の中で響きが‘間違っている’ということは、森の中において石や植物、あるいは 配置が間違っているということがあり得ないのと丁度同じように、あり得ません。私た ちは教科書から和声を、まさに見分けるようにならなければいけません。-私たちの 目標は、確かにポリフォニーの上に建てられるであろう(また森に匹敵する)この最も高い段階です。12[後注:同前]

 シェーンベルクの音楽に関してブゾーニが最後に記憶しているのは、多分《期待》及び《幸福の手》という作品だった.潜在意識に対する、それらのヒステリックな調査研究は、自然の声に対するブゾーニの晴朗な知覚とは、もはや調和しなかった。1917年までに、表現主義は、彼の地平から消えて行った.そして1918年までに、それは文字通り、彼にとって汚い言葉になっていた。《アルレッキーノⅡ》における、奇妙な表現主義者、ザウバー・バッサー[清潔な水]氏の様子は、シェーンベルクを出汁にした冗談のように見える。
 もしブゾーニが自分の同僚の芸術的危機に気づいていたならば、もっとシェーンベルクに同情的だったかもしれない。しかし正直なところ、ブゾーニは、自由な無調性の危機に対して、1911年という、はるか以前に、警告を発していた.‘無秩序’:‘シェーンベルクはそれを試みているが、それは既に、完全な円をひっくり返し始めている。’13[後注:ブゾーニ:‘新しい和声’1911年出版、『音楽の本質』]

 ブゾーニがシェーンベルクの最初の十二音音楽について、何か知っていたことを示す証拠は何もない.ブゾーニが、その体系的方法の厳格さをとても喜んでいたようにも見えない。しかしながら、十二音音楽は、ブゾーニ自身における若い古典性の発展と非常に近い、シェーンベルクの経歴の転換点を印している.また、それによってシェーンベルクも‘何か永続性のあるもの’を再び創作する必要性を表わした。なるほど、この冒険物語の終わりに、二つの円は再び交わり始める.ゲルダ・ブゾーニはシェーンベルクに《ドクトル・ファウスト》のスコアを完成するよう頼み、シェーンベルクはそれを断った.一方、レオ・ケステンベルクはシェーンベルクにブゾーニの死によって空席となっていたプロシア芸術アカデミーの教授職を提示し、シェーンベルクはそれを受け入れた。
 いつも、ブゾーニとシェーンベルクの関係は、複雑そのものであった.その強烈さゆえに、両当事者の親愛な意図ゆえに、彼らがお互いを理解することは、究極的に無能力だということが余計に目立つ。完璧さという理念-ブゾーニの最も高い理想-へ楽しげに嘲笑を浴びせるシェーンベルトのやり方の中に、我々は、シェーンベルクの誤解の幾分かを知覚することが出来る。
 
 あなたは本当に、そんな無限の蓄積を完璧に整えるのですか? あなたは本当に、それが到達可能だと思っているのですか? 私は神の作品、つまり自然の作品でさえ、極めて不完全だと思います。いや、私は完璧さを、指物師、庭師、ケーキ職人、美容師らの作品にのみ見出します。14[後注:シェーンベルクからブゾーニへの手紙、1909年8月24日]

 ブゾーニは自分自身を、音楽がそれまで存在していたよりも一層高く、一層純粋な領域へ音楽を導くべき精神的指導者と見なしていた。彼は、音楽の世界が中世的な停滞に捕われている状態にあると気づき、新しいルネサンスを宣言する最初の人になることが自分の義務であると感じていた。ヘルマン・ヘッセのように、彼は言いかねなかった.‘私は新時代の終わり近くに生まれた.中世への初期回帰の少し前に。’15[後注:ヘルマン・ヘッセ:‘略歴 (1924年)’『新展望 ノイエ・ルントシャウ』36号(1925年8月) pp.841-56.]そして、商業的に方向づけられ、道徳的に視野の狭いアメリカ合衆国社会の中で、ブゾーニは‘新しい中世’(《アルレッキーノⅡ》を参照)の抑圧的な支配を最も生々しく感じた。彼の音楽においては、こうした状況への周期的な言及がある.-直観的には、彼が若い頃の《中世のスケッチ》や《古い舞曲》において.半ば意識的には、1895年に作曲された《武装した組曲》作品34において.よく知られた事実としては、彼の成熟した音楽について、グレゴリオ聖歌と粗削りなオルガヌムの調和を益々頻繁に頼みとすることにおいて。或る注釈者が説明したように、‘彼は中世に戻って行った.なぜなら彼はそこに、彼が望んだものを見出したからである-彼自身の潜在的に驚くべき未来にもかかわらず、人間の非実在という感覚を。’16[後注:Bernard Bromage:‘The Mysticism of Ferruccio Busoni’,The Modern Mystic, London, Sept.1938, pp.340-3.] 

 美学に関する自分の著作においてブゾーニは、この‘素晴らしい未来’の性質について、やや詳細に示した。彼の音楽は、その方向に最初の二三歩を踏み出しているに過ぎない.その事実が(とりわけ)ヴァレーズに、自己矛盾を見抜かせた。しかしブゾーニは、自分がほんの少ししか新しい音楽に食い込まなかったことに気づき、そして自分の努力の成果を来たるべき世代へ譲り渡すことに熱中し始めた。それで‘体系的進歩の理論’というわけなのである。この長い旅の終わりに、そこでは‘素晴らしい未来’が現実になるのだが、人類は完璧さに到達するだろうし、楽園が取り戻されるだろう。《ドクトル・ファウスト》におけるヘレナの幻影は、この完璧さへの到達を表現した。人類が、この目標に遠く及ばないことは明らかだった.そして、それゆえ、この幻影が消える前、ファウストに対して素早く、かつ恐ろしい程に姿を現わす。
 ヘレナによって表現された音楽的宇宙のための幾つかの隠喩は、ブゾーニの著作において見つけられ得る.例えば、大きなゴシック聖堂や神秘的な隠れた神殿のイメージ(それを我々はアラジンの洞窟と呼ぶようになるであろう)。彼はさらに、庭の隠喩を用いる。
 
  作曲家というものは、私にとって庭師のように思われる.その庭師に、土地の平面図は 規模が大きかろうと小さかろうと、洗練のために配置される。....それは、この庭師が自分の目と腕(自分の識別力)の範囲内で、その割り当てを知って整える役割に相当する。こういうわけで、バッハやモーツァルトのように力のある人でさえ、地球の完全な植物 相の一部を探り、扱い、展示することが出来るだけであろう.惑星を覆っている楽園のほんの小さな断片を。17[後注:ブゾーニ「音楽の本質」1924年出版、『音楽の本質』]

 しかしながら彼は続ける.庭さえ、不十分な隠喩である.というのは、庭がたった一つの平面を占めるに過ぎないからである.音楽が宇宙全体であるのに対して。彼が、この‘音楽の王国’を世界のあらゆるメロディが同時にかつ永遠に振動する一つの領域として描くことは、おそらく彼が自分の先見性を言葉で定義する際に最も接近したものである。そのような領域において、時間と空間は意味がない。こうして彼は、自分の実験にとって根本的である一つの概念を形成するようになった.-その概念とは‘時間の遍在’★ である。★[脚注:‘私は時間の遍在に対する一つの説明を、ほぼ見つけました.-しかし私は、なぜ私たち人間が時間を過去から未来への直線として理解するのかを、発見していません.時間は宇宙における全てのもののように全方向の形でなければならないにもかかわらず。(ゲルダへの手紙、1911年3月30日)]
 一刹那さえブゾーニは、この空想的な‘王国’が、普通の人によって到達可能であると思わなかった。1909年における彼の実験期の絶頂で、彼は次のように尋ねた.‘100万のリードの和声を反響させるために、人々が発明し動かし始める楽器が、どこにあるでしょうか? 世界のオルガンの1000のレジスターを演奏可能なものと変え得るテクニックが一体どこに存在し、そもそも、これから存在するのでしょうか?18[後注:ブゾーニ「芸術と技術」、1909年出版、『音楽の本質と一元性』]
    
 眠っている世界に対して新しい音楽的ルネサンスを宣言するという願いの中でブゾーニは、自分自身が、偉大な同国人レオナルド・ダ・ヴィンチへと引き寄せられていることに気づいた。これら二人の芸術家の個性には、目立った類似点が幾つかあり、親近性はブゾーニに、かつて次のようなことを言わせた.‘おそらく私は間違っています.それとも私は自分が、私自身のはるかに小さな個性との類似点を、この人物の中に見ると思っているのでしょうか?19[後注:ゲルダへの手紙、1908年11月8日]
 
 第一に、単なる生まれの問題.つまり、エンポーリとヴィンチは5マイルしか離れていない。それゆえブゾーニは、時間経過に対する柔軟な感覚によって、レオナルドの中に隣人、すなわち仲間のトスカナ人を見出したのだろう。どちらの芸術家も、彼らが実際に成し遂げたことより、はるかに多く思索的な力を持っていた.一例が、ケネス・クラークによって、有名なレオナルド研究の中で引用されている.‘遠近による色の見え方に関する覚え書きは....多くの鋭い観察記録を含んでいる.その中で彼は、印象主義の諸理論を先取りした.しかし、これらの観察記録を....自分の絵画の中で合体させるようなことは、彼の性質にはなかった。’20[後注:ケネス・クラーク『レオナルド・ダ・ヴィンチ』、ロンドン、 1935年] 完璧さへの願望は、レオナルドの場合、一つの作品を仕上げることの無能力に対する理由であることが、しばしばだった。ブゾーニは作品を未完のままにする癖はなかったけれども、レオナルドの気後れの中に、自分の分身を見つけた。彼がレオナルドを知っているという一つの主要な典拠は、ディミトリィ・メレシュコフスキーの長々とした小説(レオナルド・ダ・ヴィンチ)であり、著作は事実に綿密に基づいていた。ブゾーニは‘ジョヴァンニ・ボルトラフィオの日記’と題された一章を、特に誉めた.その章の中に彼は、レオナルドに関する次の評価を見つけた.‘彼はいつも、まさに最高のものを求め、到達出来ないものを求めて-どんなに偉大な職人技であっても、人間の手が決して表現することの出来ないものを求めて努力する。’21[後注:ディミトリィ・メシュレコフスキー『レオナルド・ダ・ヴィンチの小説:神々の再誕』、セント・ペテルブルク、1901年] ヴァザーリも、レオナルドのことを次のように書いている.‘彼は、どんな人間のモデルをも探そうとしなかった.また、彼は人間の姿をした神にきちんと付属する美しさと美しさを自分の想像力が思いつくと、あえて考えることもなかった。’22[後注:ヴァザーリ:Le Vite, Goerge Bill訳、Harmondsworth、1965年] このように好奇心をそそる観点で、ブゾーニがヘレナの幻影を完成させなかったことは、合点がいく。まさに、彼のヘレナ像のつかみどころの無さは、レオナルドに触発されたブゾーニが、完璧さを追求した証拠である。
 双方の芸術家に共通する、もう一つのテーマは、飛びたいという願望であった。レオナルドにおいて、この執着は、観察、実験、そして(もちろん)失敗という実際の形をとった.彼は飛んでいる鳥たち、飛ぶためのグロテスクな機械や付属物の数え切れないスケッチを作った。もっと尋常でないことは、彼の空中から見た風景と街の眺めである.たとえ彼は空中に舞い上がることが物理的に出来なくても、彼の物を見る力は、そうすることが出来た。ブゾーニの飛びたいという願望は、全く想像の中だけであった。それにもかかわらず、まさに1903年、彼の実験期の初め頃、ライト兄弟が最初の飛行をした.その偉業はブゾーニに、新しいルネサンスが今や手近に迫っていると確信させるのに役立ち、また、機械が人類の進歩において、常に増加し続ける役割を演じるであろうという彼の見方を補強するのに役立った.実際的なレヴェルと同様、文化的レヴェルでも。飛ぶことの中に彼は、音楽の神聖な属性を見出した.‘音楽は、両足で地面に触れているのではない。’23[後注:ブゾーニ『音芸術の新しい美学構想』、トリエステ、1907年]
  双方の芸術家は、完璧さという理想を目ざして努力した.豊富なスケッチと研究の助けを借りて.それらの多くは、それ自身の価値によって芸術作品である。確かにブゾーニの最も完璧な作品《悲歌的子守歌》は、まさに細密画である。その上、両方の芸術家は、我々が彼らの主要作品に見出すよりも、かなり大胆な素材に関する表現のためのスケッチを用いた。レオナルドの完成された絵画の中には、グロテスクな頭の研究や想像上の自然大災害といった、当惑させる略図と比べうるものが何もない.ブゾーニの2つの本格的なオペラ、ピアノ協奏曲、及び《対位法的幻想曲》は、疑いなく彼の作品の焦点であるのだが、我々が、最初の2つのピアノ・ソナティナ、あるいは第2・第3のオーケストラのためのエレジーにおいて見出す、空想の飛翔のうちの何も持っていない。

(以下略)

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