カテゴリー「文化・芸術」の記事

2011年10月23日 (日)

ヴァルター・ギーゼラー 『20世紀の作曲』のブゾーニ記事

2008年10月10日

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上の絵画はベン・ニコルソン Ben Nichoson(イギリス・1894~1982)による1945年の作品であり、ギーゼラー著に掲載されているものではありません。私の個人的趣味です。

Walter Gieseler: Komposition im 20. Jahrhundert. Details-Zusamenhänge
©1975 by Moeck Verlag+Musikinstrumentenwerk, D3100 Celle

20世紀の作曲――現代音楽の理論的展望 佐野光司訳 音楽之友社 1988年

(39ページ)
フェルッチョ・ブゾーニは、1オクターヴをさらに細かく分割する可能性に注目した最初の人というわけではないが、その著書『音楽芸術の新しい美学の構想』(1907年)で、全音の3分割、4分割、6分割を提案して多大な影響を与えた。彼自身は、アメリカ人タデウス・ケーヒルが新たに作製した装置(1906年)から刺激されたのだが、その装置は、電気的手段により、思いのままの振動数を、すなわちどんな小さな分割による高音をも生み出すことを可能としたものであった。ケーヒルの場合には、おそらく純粋に技術的な興味が問題となっていたのに対し、ブゾーニの場合には純粋に作曲上の関心が中心にあった。

(41ページ)
作曲の上で、微分音程の音階が微分音システムを形成するほどになるかどうかは、いまのところ現実にはまだ見きわめられない。新しい様々な微小音程の素材の山は、相互関係を有する1つのシステムをまだ保証してはいないのだ。これに対して――ブゾーニがケーヒルの考案した装置に熱中したことは、後に多大な意義をもつことになるのだが――電子音楽は、微分音の実験の実際的な受け継ぎ手と言える。というのは、電子音楽にあっては、微小音程は完璧なものとされるし、また、等しい音程の音楽でも多様な音程の音楽でも、正確に表現され、関連づけがなされ得るからである。

(129ページ)
「音楽の内なる形式」とは、ある構造を、聴きつつある体験である。もちろん、聴きながらそのようなものとして把握できないような構造(たとえばセリエルな構造)もある。それらはそれゆえ、ここで言う意味における形式とはなり得ない。なぜなら感覚的に直観されるもののみが形式にもなり得るからだ。しかし知覚は常に、ある知覚する個人と結びついているので、音楽形式の把握は(形式一般の把握と同様に)、個人的にのみ実現され得る。したがってその把握は、個人的に常に変更され、更新され得よう。したがって、ある人がセリエルな音楽を聴いて形式を発見することは、個人的には極端な例として考え得るであろう。しかしそれは、現在の段階では、その音楽のセリエルな構造が把握され聴取されたのではなく、その中の別のアスペクト、つまりその構造自体でおそらく看過(かんか)されていたようなアスペクトが把握され聴取されたのだ、ということの方が受け入れられやすい。

(130ページ)
美的なるものの定義、それゆえにまた形式の定義は(ヘラクレイトスによれば)「内に異質なものを含んだ一(いち)なるもの」である。これによれば統一と対立は調和せねばならないことになる。絶えまなく更新され、変化しつつ、純粋な時間に従う音楽は、このような原理を満足させはしない。なぜなら、対立は把握可能な音楽的「形態」に接してのみ、つまり不変項に接してのみ経験できるものであり、また統一性は同一性と類似性に接してのみ経験されるからである。今日の音楽における形式の危機が(アドルノの言うように)再現に対する倦怠感の中に見られるとすると、この危機感は安易に放置できない。むしろ原理的な性格をもっていることがわかろう。

(131ページ)
形式観念、形式原理には時代性がついてまわる。その意義は増えたり減ったりするのだ。ソナタ形式の後には、拘束力の強い形式はなにも育たなかった。1900年頃には、調性とともに受け継がれてきた形式もその効力を失ったのである。

ブゾーニは嘆いている。人々は作曲家にオリジナリティを期待するものの、同時に生き残った形式図にも忍従するように強いるのだと。このような嘆きは、新古典主義の時代に、たとえばストラヴィンスキーが古い形式に従ったことにまさにその使い古された様態を示し、目をパチクリさせるようなアイロニーと化している。

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2010年8月28日 (土)

ルードルフ・フォン・ラバン Rudolf von Laban に関する資料

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下記の諸著作をアマゾン・マーケットプレイスの最低価格より安くお譲りします。どの原本も劣化を恐れ、購入後すぐにコピーを取って、原本は涼しい場所に保管しましたので、ラバン研究のコレクター商品としては最適だと思います。 メールにて、ご連絡ください。

Laban, Rudolf von. Gymnastik und Tanz. Olenburg: Gerhard Stalling Verlag, 1926.

Laban, Rudolf von. Kindes Gymnastik und Tanz. Oldenburg: Gerhard Stalling Verlag, 1926.

Laban, Rudolf. A life for Dance. Translated and annoted by Lisa Ullmann.New York: Theatre Arts Books, 1975.

Laban, Rudolf. Modern Educational Dance. London: Macdonald Evans, 1948.

Laban, Rudolf. Mastery of Movement on the Stage. London: Macdonald Evans, 1950.

Laban, Rudolf. Mastery of Movement. 2nd ed. by Ullmann, Lisa. London: Macdonald Evans, 1960.

Laban, Rudolf. Principles of Dance and Movement Notation. London: Macdonald Evans, 1956.

Laban, Rudolf. Choreutics. ed. by Ullmann, Lisa. London: Macdonald Evans, 1966.

Laban, Rudolf von. Die Welt des Tänzers. Stuttgart: Walter Seifert Verlag, 1920.

Laban, Rudolf von. Ein Leben für den Tanz. Dresden: Carl Reisser Verlag, 1935.

Laban, Rudolf Lawrence, F.C. Effort. London: Macdonald Evans, 1947.

ラバンの横顔
Rudolf von Laban. Eine Leben für den Tanz ( Dresden: Carl  Reisser Verlag, 1935 ) より転載
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ドゥシア・ベレスカ
Rudolf von Laban. Die Welt des Tänzers ( Stuttgart:  Walter Seifer Verlag, 1920 )より転載W18192r

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メリー・ヴィグマン
Rudolf von Laban. Die Welt des Tänzers ( Stuttgart: Walter Seifert Verlag, 1920 ) より転載  

   

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(注)以下は、Valerie Preston-Dunlop. Rudolf Laban: An Extraordinary Life( London: Dance Books, 1998 ) の表紙に記載されていた記事を、2005年東京藝術大学大学院音楽研究科修士論文提出のため、2003年に訳したものの一部です。

ヴァレリィ=プレストン・ダンロップ著『ルードルフ・ラバン』の紹介

空想家、神秘主義者、恋多き男、指導者、美術家(訳注:「芸術家」の誤訳ではない)、教師、理論家・・・ルードルフ・ラバン(18791958)はこれら全ての人であり、それ以上だった。ダンロップの著作はラバンの並外れた人生の物語である。ラバンの人生は混乱した近代ヨーロッパの背景を形成した政治的・社会的・文化的な激動と深く結び付いていた。

世紀末のハンガリー・オーストリア帝国に生まれて、ラバンはウィーン、パリ、ミュンヘン、チューリッヒ、ベルリンで生活した。彼は古い秩序の崩壊を目撃し、2つの世界大戦のトラウマを切り抜けた。彼は新しい社会の誕生と芸術的な動きを見た。そして、ナチズム(ドイツ国家社会主義)の隆盛について行った。ただし、彼は結局ナチズムから逃亡を余儀なくされ、最初はフランスに、そして最終的にはイギリスでもう一度人生を立て直した。

彼は画家、建築家、イラストレイターとして出発したけれども、永く影響を残したのは動作と舞踊においてだった。彼はパフォーマー、振付師、助言者であった。しかし、彼の思いつきは常に一層広い「動作の理想像」――劇場芸術としても、地域社会の儀式としても、自己発見としても――の一部分だった。

動作の研究を通じて、彼は身体と精神の相互連結を明らかにした。また、彼は革命的な「動作記録の方式」を考案し、それは今日でも使われ、影響を及ぼしている。

ラバンが他の人々を鼓舞したのは、仕事を(中断したところから)再び始めて発展させるという人生の歩み方全てだった。彼の思いつきは舞踊においてだけでない、演劇やパフォーマンスにおいても、非言語コミュニケーションの研究においても、人間工学においても、教育理論や子供の発育においても、人格の評価と精神(心理)療法においても新機軸を生み出した。

並外れたカリスマ性と人間的魅力を持つ男、ラバンは複雑であり、絶対に型にはまらず、深く身を捧げた。本書は、初めての充分なラバンの伝記であり、理想主義的で覚醒し、決断力のあった彼の人生の注目すべき物語を伝えている。

                           ☆☆☆☆

翻訳が待たれるラバン著

Laban, Rudolf von. Die Welt des Tänzers. Stuttgart: Walter Seifert Verlag, 1920.

Laban, Rudolf von. Ein Leben für den Tanz. Dresden: Carl Reisser Verlag, 1935.

Laban, Rudolf Lawrence, F.C. Effort. London: Macdonald Evans, 1947.

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2009年2月 7日 (土)

ライヒテントリット著『Music, Histry and Ideas』に見られるブゾーニ

ライヒテントリット、フーゴー『音楽の歴史と思想』(Hugo Leichtentritt, Music: 
History and Ideas. 1950.) 服部幸三訳、東京:音楽之友社、1959年。
p.30406
 ヴァーグナーに対抗して20世紀の新芸術を作り出す次の歩みは、ベルリン、ウィーン、ペテルスブルグで起こった。ベルリンではフェルッチォ・ブゾーニが20年間、何か本質的に新しいものをまじめに生み出そうとするあらゆる思想の擁護者になった。比類ないピアノの名手、作曲家、指揮者、教師、随筆家、芸術哲学者であったブゾーニは最高の芸術家、知的タイプに属する優れた人物であった。 彼は現代運動の焦点に立ち(←位置し)あらゆる傾向を知り尽くし、全てを厳格に吟味して、ある物は是認し、ある物は撥ねつけた。ドビュッシイとラヴェル、デリアスとシベリウス、ストラヴィンスキーとシェーンベルク、カセルラ、マリピエロ、ピツェッティ、バルトーク等は、すべてブゾーニに事細かに知られていた。

 ほとんど毎晩のように客を迎える彼の住居、ベルリンのヴィクトリア・ルイゼ広場11番地には、各国から集った若い芸術家達の会合があった。この会合では、誰もが自由に発言し、当時の芸術上の問題について論争が闘わされ、ブゾーニのエスプリと機知(ウィット)、優れた理解力、成熟した判断力、素晴らしい批評が加わることによって、またとなく輝かしいものであった。おそらく、混乱した国家主義的な、みじめな現代には、このような集まりはもうあり得ない。それは実際、我々がプラトンの鮮やかな筆の運びを通じて知っているソクラテスの談話会(饗宴)シンポジウムの一種の現代版であった。

 ブゾーニの驚くべき多才は彼の作曲に表われているが、二三のバッハの編曲を除けば、アメリカではほとんど知られていない。彼は種々の新傾向を全て選り分け、それをエキスに煮詰めて、自分の個性的な表現法の根本的特質には重大な影響を及ぼすことなしに、不思議な香りを添えている

 この長い蒸留過程を通じて、彼は遂に本当に価値のある要素の高度に凝縮された本質を手中に納めた。そのような絶え間のない精錬、高い精神と高度に煮詰められた本質、非本質的通俗的なものの完全な排除、この上なく複雑困難な問題のごくあっさりとした提示のために、彼のスタイルは幾分いかめしい近づき難いものになっている。親しみ易い特性は、明るいイタリア風の旋律が時折暗示されるのを除けば、ほとんど見られない。そのために、彼ほど偉大な芸術家のこの上なく価値の高い音楽が、ごくわずかしか知られていないという不思議な事実が生まれてくる。実際、彼はごく稀な教養の高い潔癖な鑑賞家の内輪のサークルにだけ話しかけるのである。

 自分の芸術上の遺書として彼は、詩的にも非常に優れた自作のリブレットに基づくオペラ《ファウスト博士》を書いた。《ファテウスト博士》は最も立派な現代作品の一つであるが、難解さと思想の超越性のためにオペラ通いの大部分の大衆にはおそらく理解されることがないだろう。だが、ドイツでは、音楽祭の催しには繰返し演奏されており、この作品の高い水準についてゆける人達には、いつも深い感銘を与えている。 血筋も、教育も、半ばドイツ、半ばイタリアに育ったブゾーニは、個性と芸術の面でも二つの国民性を合わせている。イタリアの活気と陽気さ、単純さ、明瞭さ、形態の優美さに、ゲルマン民族のファウスト的な知性、理想主義、内容の深み、感情の強烈さが融け込み、その結果、彼の芸術はほとんど並ぶものがないユニークなものになっている。 

 彼の究極の理想は、彼が最も熱烈に尊敬していた大家、バッハとモーツァルトに基づく新古典主義であり、彼の狙いは、バッハの構成技術と複音楽の論理、モーツァルトの明快さと優美さに、現代の和声と管弦楽法の全ての成果を結び合わせることであった。

 ブゾーニの新古典主義はイタリアにも、ドイツにも、かなりの影響を及ぼした。ヒンデミットとエルンスト・トッホ、イタリアのカセルラ、マリピエロ、ピツェッティの音楽にはその傾向が認められる。...

                                         

p.261   19世紀が、最も積極的に貢献したのは、再現的な音楽芸術であり、それは以前にはない大きな成果を収めた。素晴らしい才能を持ち、完全な技術を身に付けた芸術家達が、前の時代には未知のものであった感銘の深さと暗示力をもって、偉大な大家達の作品を演奏した。ピアニストにはショパン、メンデルスゾーン、リスト、ルービンシュテイン、ビューロー、タウジッヒ、ダルベール、パデレフスキー、ブゾーニがあり...

p.265  とりわけ注目されるのは、...ホフマンのバッハについての言葉である。

「特に、偉大なゼバスティアンの楽譜に目を触れる時、数の音楽的な比例、いやむしろ対位法の神秘的な法則そのものが、心に戦きを呼び起こす瞬間がある。音楽よ! 神秘な畏れの念に満ちて、私はお前に呼びかける。汝、音に描かれた自然のサンスクリットよ!」

p.272   リストは風景の印象を音楽に表現する新しい可能性を開いた。殊にスイスとイタリアの旅行の印象を、非常に暗示的、絵画的に表現したピアノ曲《巡礼の年》は、大家が演奏すれば、いつも新鮮で魅力的に響くブゾーニは、この作品を弾いて驚くほどの印象を与えたが、それはドビュッシイの音楽さえ凌ぐものであった

ライヒテントリット、フーゴー『音楽の歴史と思想』

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2008年12月10日 (水)

アポロン(Apollon)とディオニュソス(Dionysos)

人は人間としての幅があればある程、魅力的だと思うのですが、その最たる場合を説明するために、「アポロン的要素とディオニュソス的要素を併せ持つ人」という表現を使ってみます。

Akiko06_4私には難解すぎて手がつけられないまま実家に死蔵されているドイツ系の文学書・哲学書のうち、ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844~1900)の『Die Geburt der Tragödie aus dem Musik 邦題 音楽の精髄からの悲劇の誕生(秋山英夫訳) または 悲劇の誕生――音楽の精神からの(西尾幹二訳)』をほんの少し、実感を伴って読めるようになりました。

秋山英夫先生の訳注では、アポロとディオニュソスが以下のように対比解説されています。(『悲劇の誕生』秋山英夫訳、岩波書店、230ページより引用)

アポロは光明と明晰の神。ディオニュソスは酒と陶酔の神バッカスのギリシア名。
素姓・・・アポロ→純ギリシアの神。ディオニュソス→トラキアのデーモン(鬼神)。
住居・・・アポロ→天界。ディオニュソス→大地、下界。
聖獣・・・アポロ→白鳥、イルカ。ディオニュソス→雄牛、豹(ヒョウ)、ライオン、蛇(ヘビ)。
植物・・・アポロ→月桂樹。ディオニュソス→常春藤(キズタ)、葡萄(ブドウ)。
奉仕者・・・アポロ→ミューズの女神たち。ディオニュソス→酒神信女(マイナデス)。
礼拝・・・アポロ→静的尊信。ディオニュソス→興奮的狂騒的密儀。
犠牲・・・アポロ→供物をする。ディオニュソス→いわゆる聖餐(せいさん)様式で、神自身(=雄牛)が犠牲にされ食われる。
音楽・・・アポロ→荘厳な格調ある音楽。ディオニュソス→騒々しい舞踏音楽。
特性・・・アポロ→冷静な自己抑制。ディオニュソス→陶酔、狂気。                                          

ちなみに、アポロン的要素とディオニュソス的要素を顕著に体現している過去の芸術家は、モーツァルト、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ブゾーニ・・・他にもいるでしょうが、私が興味を持っているのはこの3人です

芸術は、アポロ的なものディオニュソス的なものとの二重性によって進展していく。ちょうど生殖が、たえず争いつづけ、わずかに周期的に仲直りする男女両性の対立によって子どもをふやして行くのと、様子がよく似ている。このことをもしわれわれが論理的に理解するばかりではなく、直観によって、直接たしかめることができたら、美の学問のために得るところ多大なものがあるといえよう。(西尾幹二)

もしわれわれが以下述べるようなことを頭で理解するだけでなく、直接、具体的に確信できるようになれば、美学に寄与することは多いと思う。すなわち、芸術の発展というものは、アポロ的なものディオニュソス的なものという二重性に結びついているということだ。それはちょうど生殖ということが、たえずいがみあいながら、ただ周期的に和解する男女両性に依存しているのに似ている。(秋山英夫)

皆さんに私の境地(?)を理解して頂き易くするため、ドイツ語の原文は掲載せず、西尾幹二先生の訳と秋山英夫先生の訳を並べて掲載してみました。「論理的に理解するばかりではなく、直観によって、直接たしかめる」または「頭で理解するだけでなく、直接、具体的に確信できるようになる」ことを実感しています。そうすると、大学の哲学科に入学したばかりの現役大学生などに、「ニーチェの言動を理解せよ」と言うのは無理なことであろうと思われます。つまり、彼らはそもそも具体例に出会うことがなく、もし出会ったとしても感じ取れる感性が養われていないので、ニーチェの言っていることがチンプンカンプンだと思えてくるのです。

アポロとディオニュソスという二つの名称を、われわれはギリシア人から借りうけている。ギリシア人は、深遠なる奥義ともいうべきこの芸術観を、概念によって表わすことはしなかったが、神話の世界のあざやかなほど明晰な神々の姿をかりて、見える者には、見えるように表わしている。(西尾幹二)

アポロ的とディオニュソス的という名称は、ギリシア人から借用したものである。彼らはその芸術観の奥深い教えを、概念的でないにしても、彼らのつくった神々の世界の鮮明な二柱の神のうちに、目のある人にはわかるようにしてくれているからだ。(秋山英夫)

私は自分を「見える者」「目のある人」と思っていました。人物に対する審美眼には妙な自信がありました。しかし、2008年4月以後は、かつてのように「メドゥサ」ぶるのをやめました。・・・              

                     (Under Construction)

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2008年9月14日 (日)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 3-1

Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg:

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Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ論文『フェルッチオ・ブゾーニ――1つの再評価――オペラに於ける集約』

音楽の革新についてのブゾーニの教義は、次第に、第1次世界大戦の混乱から発した若い世代の音楽家達への刺激によって大部分実現されるに至った。不幸にも、ブゾーニ自身は、音楽の革命の全衝撃を立証するために生きていたのではなかった。しかし、1924年の彼の死の頃までには、感覚性と主観性は排除され、そして音楽が感情或いは心理的な状態を表現することができるというロマン的な概念は、音楽作品が単に音楽の創作自体の秩序のある構成的な進行を表現するという概念に乗っ取られて[原訳:乗りとられて]しまった。こうして、ブゾーニの透明性[原訳:澄明性]、形式及び内容に関する見解と、ただ音楽の法則だけが楽曲を支配するという彼あの教義は、ブゾーニに続く人達の作品に根を張った。ドイツでは、音楽にこうした新しい概念を導入することは、痛烈に、そしてシェーンベルク、ストラヴィンスキーそれからヒンデミットへの反動で最も顕著に反対された。こういう20世紀の音楽の3つの巨人の大きな姿を世界に明示するには、もう10年或いはそれ以上も必要としたが、彼等の最終的な肯定は、みな違った方法ではあるが、ブゾーニの教旨[ママ]で与えられた知的な基礎と刺激によってもたらされ得たのであった。

                        ☆☆☆☆

ここで、ブゾーニの美学的な原則が彼のオペラでどのように最も純粋に応用され、表明されたかを調べることが残されている。ピアニスト、作曲家、思想家としてのブゾーニの3重の能力にも拘[かかわ]らず、ブゾーニは、1つの芸術的な次元に自分を置いていた。ブゾーニは、常に、自分の芸術家としての全使命が表現法の1つの不可分な統一体、つまり1つの『総合[原訳:綜合]芸術作品』であると主張していた。ほとんどその生涯の終わり[原訳:終り]でも、彼は、自身[原訳:自体]のオペラ『ファウスト博士』の有名な序文を次のように書いて、音楽の本質と単一性をやはり強調していたのであった。

『時代は、「統一体」として音楽の全現象を認識する[原訳:認める]ようになってきて、もはやその目的、形式、音の媒体によって音楽を区別するということはなくなった。専[もっぱ]ら内容と特質という2つの前提から音楽は認識される[原訳:認められる]べきである。・・・目的ということは、自分ではオペラ、教会及び演奏会の3つの分野の1つを意味し、形式とは、歌曲、舞曲、フーガ或いはソナタを意味し、音の媒体とは、人の声や楽器の選択を指す。そして、楽器の中には、管弦楽、四重奏、ピアノ或いはそうしたものすべてのものの多様な結合が含まれる。』

こうして、オペラは、ブゾーニにとっては、型の点から優劣があるにしても、独立した『ジャンル』を作るものではなかった。ブゾーニの音楽の単一性という根本的な概念では、台本、衣裳、振付[原訳:振附]、劇場的な神秘主義のようなオペラの組成成分[原訳:組成々分]は、すべて単一の音楽的な機能の要素なのであり、『どこでそしてどんな形で現われようとも、音楽は専ら[もっぱら]音楽として存続し、他の何ものでもなく、しかもただ幻想を通じて、題名と表題或いは台本により音楽に与えられた説明及びその音楽の状態を通じて、特殊な範疇に入れられるにすぎない。』

ヴァーグナーに反対して、ブゾーニは、オペラでは『感覚的或いは官能[原訳:性欲]的な音楽は明らかにこの芸術の本質そのものによる地位から外れている』と断言した。オペラは、あらゆる劇場の因襲的な慣例から解放されるべきであった。彼は次のように書いた。

『オペラの総譜は、所作に適合している一方、所作から離れて、一つの完全な音楽的な絵画を見せなければならない。・・・事実、オペラを作曲することは、現われるあらゆるものの暗示的な将来と過去の・・・   

                               (Under Construction)      

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2008年5月31日 (土)

ブゾーニの美学2

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

ブゾーニの「哲学的センスの良さ」ないし「男としてのかっこ良さ」が台本の中に充分表れているオペラ《トゥーランドット Turandot》の一場面を、ご紹介しましょう。古代中国皇帝の一人娘トゥーランドット Turandot は、求婚者カラフ Calaf(実は身分を隠した西国の王子様・ブゾーニの自己投影)に3つの難題を出します。姫の出す難題に答えられなかった今までの求婚者たちは死刑に処されたのですが、カラフは3つの難題にことごとく正解し、すっかりトゥーランドットの心を捉えます。

トゥーランドット・第1の問い
「地を這い(はい)、天に向かって飛ぶ。暗闇を探り、光を放つ。過去を振り返り、未来のために努める。古きを守り、新しきに目覚める。思慮深いが、しばし逆らう。健やか(すこやか)で、しかも病んでいるものは何?」

カラフの答え
「地を這い、天を飛ぶ。暗闇を探り、光を放つ。古きを守り、新しきに目覚める。自らの世界を織りなし思慮深いが、しばし逆らう。それは、人間の分別。」

トゥーランドット・第2の問い
「常に変わらず、しかし常に変化を続ける。今日命じられたのに、明日は禁じられる。ここで褒められたのに、あちらでは罰せられる。初めに守られたのに、後にあざけられる。黙っているが、なくてはならぬ掟。なくても困らず傷もつかないものは何?」

カラフの答え
「変化しながらも存続し、空っぽの概念ながら習慣として生き続け、ひとたび用がなくなれば、物笑いの種となる。それは、道徳。」

トゥーランドット・第3の問い
「時の根から、人間を支える幹から、習慣という枝から、この上なく美しい花が咲く。全ての人が惹かれる(ひかれる)が、それを持つ者は少ない。霊感を授かった者だけが、それを治め、全てを守り、全てを変え、人の世を明るくするために天から与えられたものは何?」

カラフの答え
「時の根から、人間を支える幹から、習慣という枝から咲いた、この上なく美しい花。全ての人が出会うけれども、一握りの人だけに聴くことが出来、感じることが出来、考えることが出来、見つめることが出来るもの。これこそ天の恵み、大地の口づけ。それは、芸術。」

拙訳ゆえ、もっと良い訳をご存知の方はご教示ください。私がブゾーニの《トゥーランドット》を初めて観たのは、1988年のことです。何度も観たプッチーニの《トゥーランドット》を始めとする、他の陳腐な脚本の問答に比べ、何と含蓄ある問答だろうか!と感銘を受けました。それ以後ますますブゾーニの大ファンになり、今日に至っている次第です。ただし、2番目の道徳に関しては、2006年1月8日以後、ブゾーニの台本よりも良い表現がある、と思うようになりました。

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2008年3月31日 (月)

ポール・グリフィス『現代音楽小史』におけるブゾーニ記述

ポール・グリフィス『現代音楽小史―ドビュッシーからブーレーズまで』( Paul Griffiths, A History of Modern Music―from Debussy to Boulez. London, 1978 )石田一志訳、東京:音楽之友社、1984年)

アーノルト・シェーンベルクに関する記述のあとで

p.19-20

半音階主義に秩序を与えるための手段としてバロックに復帰した別の作曲家としては、イタリア系ドイツ人の作曲家兼ピアニスト、フェルッチョ・ブゾーニ(1866~1924)がいた。彼の広い視野は、ドビュッシー風和声、北米インディアン音楽、ロマン派のレトリック、イタリア・ルネサンス期への生き生きとした関心にまでおよんでいる。彼はいくつかの面でマーラーの逆であった。つまりこの人物は、すべての経験に心を開いていたが、外側からそれを見ていたからである。彼の傑作、オペラ《ファウスト博士 Doktor Faust 》(1916―24)は、自叙伝というよりも、もっとなぞに満ちた神秘的な劇ではあるが、普遍的知識を求めるファウストにブゾーニが共感を寄せていたことは、疑いないものである。彼は、とてつもなく変化に富んだ作曲家であったが、しかし音楽作品の中では決して《新音楽美学提要》(1907、増補1910)のなかに書いたほどに挑戦的なことは敢行していない。この著作のなかで彼は、急進的に新しい音階の可能性や、電子音楽の可能性まで述べているからである。もっとも、これはあいまいで夢以上のものではないが。・・・

Under Construction

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2007年9月30日 (日)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 2-2

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 2-1 の続き

しかし、こうしたことがみな考慮され、正当に斟酌[しんしゃく]された時に、しかも自身の作品で彼の高い意図を遂行[すいこう]することができなかった有能[原訳:有力]な個性[原訳:個人]に我々は出会うのである。ブゾーニの賞賛者[原訳:賞讃者]達は、彼の思想と彼の前後[ママ]に対する彼の見識の峻厳[しゅんげん]さと複雑さのために彼はその世代の人達から離れてしまい、現在になってやっと我々が彼の意図の全貌を認め始めていると主張する。しかし、現在との不和の中に彼[ママ]を置いているものがブゾーニの思考の中には沢山[たくさん]ある。すでにこの論説の第一部で見たことなのだが、ブゾーニは、音楽の発展について[原訳:発展の]現在流行していない教義を提案[原訳:提出(beantragen に相当するイタリア語の訳出と推測)]した。例えば、彼は、次のように書いて、歴史的な見解を述べた。

『新来者達は、自分達がすべての先達者[原訳:先輩]と関係を絶つことが出来る[、]或いは関係を絶ったと考えて、自分自身を欺いている。この考えは、彼等の確信にも拘らず[かかわらず]、正当なことではない。何故[なぜ]かというと、如何[いか]なる子供も、母を持っていて、生れた後でさえもこの母とは臍[へそ]によってやはり結ばれているからである。これらの最も若い新来者は、事実、自分自身想像するほどには独創的ではない。他方、人間の眼が前方を向くように仕組まれているということは否定できない。というのは、人間が現在は生きているのならば、その時にのみ、この人間はどうやら存在する資格があるからである。』

そして後に、同じ論説で、彼は、『まず立派な発明者である人は、後方に戻り[、]そして改革者となるのだ』と宣言している[。](『現在の出来事とは何か。』日時不明のブゾーニの遺稿の中から発見された自筆の原稿による。『音楽の本質』という題でブゾーニの数々の著作を集めて[原訳:集めた]ロザモンド・レイの英訳で初めて出版された。)

このことは、発明者と改革者がまたブゾーニの中で主権を得るために争っていたことを示している。

我々はブゾーニを非難する人(中でもハンス・プフィッツナー[原訳:フィッツナー])と今日のブゾーニの追随者[原訳:追従者]との中間の道に舵をとり[取り]、こうしてブゾーニの作品の生きている幹から死んだ枝を切り離そうと思う。発明者として、ブゾーニは、音楽の語彙を拡げる問題、特に新しい音階によって準備された旋律的及び和声的[原訳:和声的な]拡張の可能性に没頭した。彼は半音を3つの部分に分割することをすすめた。彼の見解では、こうした音の調整法は、4分音よりも耳で容易に把握できる筈[はず]だという[言う]のである。この全音の3分の1の体系で、ブゾーニは丁度136の音階[原訳:そのような音階]を作ることができ、『これは古典的な体系が1本の[原訳:絃]の楽器だけによるものに対して芸術的材料の拡張である』と主張した。[注:斜線部分は、マルセル・グリリの誤解であり、後続のブゾーニ研究者もこの誤解を踏襲している。ブゾーニが元々別の概念であった「3分音」と「音階」について、同じ本の中で隣合わせて書いているため、このような誤解が生れたのであろう。山田]

旋律の機能に関して[原訳:関しては]、ブゾーニは、『旋律は潜在的な和声を含む』し[、]また『律動的に明瞭で生気を与えられていなければならない』と要求した。この論説の第1部で述べたことだが、『若き古典主義』という語を用いて、ブゾーニは」『これまでのあらゆる実験の累積を篩い[ふるい][、]そして利用するという熟達さ[注:この訳語が適切でないことは分かっているけれども、目下、代替案が見つからないためそのまま記載:山田]とそれをしっかりした美しい[原訳:形成]にこめること』を強調しようとした。そして彼は、次のように書いて、他のあらゆる手段に打ち勝つ旋律の勝利を予言するところまで進んだ。

『若き古典主義ということで、自分は、主観的であるものから明確に出発すること、あらゆる声とあらゆる情緒(楽しい動機という意味ではなくて)の支配者として、そして観念の運搬者及び和声の生産者として再び旋律へ復帰すること、簡単にいえば[言えば]最も高度に展開された(最も複雑なというのではない)ポリフォニーを含包するのである』(ハンス・プフィッツナー[原訳:フィッツナー]との論争の際に書いたパウル・ベッカー宛の書簡、1920年2月27日)

それから、ブゾーニは、モーツァルト、ベートーヴェン、ヴァーグナーの芸術に対し、技巧上の発見が増加することは、常に旋律的な発明が減少していることの理由になると述べている。彼によると、技巧上の熟達はあたかも[原訳:あたかも技巧上の熟達は]、尋常でない[原訳:異常である]ことによりその効果を更に[さらに]強めることができ、旋律的な表現は、ただ親しみやすいということによってのみ効果を上げることができるとも思えるほどである。しかし、彼は更に[さらに]次のように論を進めてゆく。

『実際問題として、モーツァルトは、その先輩達よりもずっと豊かな旋律の作者であった。ベートーヴェンは、モーツァルトよりも闊達[かったつ:原訳:濶達]で妙を得た旋律を書く。ヴァーグナーは、ベートーヴェンよりも高尚で心理学者的ではないにしても、華美で(艶麗で)、従属的で[ママ]官能的で個性的[原訳:特性的]な旋律を作る。一群の作曲者達が反動を試みるのは、こうした唯物主義に対してなのである。』(『将来の音楽の旋律についての観念』カリフォルニアのロスアンゼルス[ママ]からの妻に宛てた1911年3月15日の書簡の中で初めてブゾーニが記し、後に、1912年7月の Zeitschrift für Musik の中に論説として現われたもの)。

アーノルト・シェーンベルクほどの大家もブゾーニがオペラの改革の分野での第1位にいることを認めている(シェーンベルクの‘Style and Idea’ニューヨーク[ママ]1950年の219頁以下を見よ)。ブゾーニの対位法的で線的な様式は、彼の弟子のエルネスト・クシェネックとクルト・ワイルが1920年代と1930年代の初めの間に演出した初期のオペラ、特にワイルの『人質[原訳:抵当]』Die Bürgschaft(1932年)にとっての大きなそして必要な要素[原訳:成分・原語はBestandtailに相当するイタリア語と推測]として役立つこととなった。

最後にブゾーニの管弦楽的な楽器用法についての見解もまた、彼[原訳:の]同じ時代の人達の大部分の見解と反対の方向に進んでいた。特殊な楽器の色彩或いは『特別な効果』を開拓するために、その個々の楽器の能力と限界についての明確なそしてほとんど卑屈な[ママ]ばかりの注意によって、種々の楽器のために音楽を書くということが同時代の人々の大部分の目標であったのに対し、ブゾーニは、『管弦楽は単一の楽器、あらゆる器官[ママ]が同時に働く連結された組織として考えられなければならない』と弟子達に想い起こさせていた。彼自身の言(げん)では、彼は、楽器から個々の特質をとり除くこと――これを彼は『個性除去』(Entindividualisierung)と呼んだ――そして、如何(いか)なる特殊な音の性質にも独立的な、抽象的な音楽的観念の表現のための方法として、そうした楽器のために『その性質そのものに対抗して』(gegen ihre Natur)音楽を書くことを目指した。

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ブゾーニの音楽の刷新、特に半音階を精巧にするということに対する彼の示唆と彼の技巧の分析についての見解は、シェーンベルクへの道を開いた。1925年にベルリンのプロイセン芸術アカデミーで教授としてブゾーニの後をついだのがシェーンベルクであったことに注意[原訳:を注意]しておくのは、興味深い[原訳:興味のある]ことかもしれない。1909年にさかのぼり、ブゾーニが極めて少数の『未来派』の中で、作品11のシェーンベルクの第2ピアノ曲集のブゾーニの演奏会版から証明されるように、シェーンベルクの音楽の美点を認めていたということは、一層大きな興味のあることである。

というのは、そういう時代に、実験と『内容と芸術的な永続性の不利な立場のための表現手段の過大な重要視』の時代が頂点に達し、次の局面には古典的な形式と純粋性の復活をもたらすとブゾーニは信じていたからである。1912年に書かれた『自己批判』と題する論説で、ブゾーニはドビュッシーの目的と作曲者としての自分の目的とを区別した。ブゾーニの書くところによると、『ドビュッシーの芸術は、彼の個性的ではっきりとした明確な感情を彼自身の本質から外部の世界へと推進させている。自分は、人間をとりまく宇宙に接近し、それを創作された形式の中に還元しようと努める。』そしてブゾーニは更に直截的に次のように続けた。

ドビュッシーの芸術は、アルファベットの中から多くの文字を打って作り出す限界を暗示し、学者ぶった詩人風の遊戯、つまりAとRを省略した詩を書くことの例に従っている。自分は表現のあらゆる手段と形態を豊富にし、拡張し、拡大するために努力する。
ドビュッシーの音楽は、極めて多様な感情と状態を同じような音の公式で解釈している。如何(いか)なる主題に対しても、自分は、それぞれ異なった適切な音を見つけ出そうと努力してきた。ドビュッシーの音の構図は、並行で単音楽的である。自分は、ポリフォニーで『多行的』であることを自分のものに望んでいる。ドビュッシーの音楽の中では、和声的な基礎として属九の和音、旋律的な根底としての全音が、それぞれ融合することなく認められる。自分は、如何なる体系も避け、和声と旋律を分離できない一体のものに向かわせようと[原訳:向かせようと]努めている。彼は、協和と不協和を分離している。自分は、この相違の詳細を教える。自分は、「試み」、「欲し」、「努力した」のである――自分は、それをこれまでに十分に或いは包括的になしとげたということではない。というのは、自分は、端緒を作っていると感じているのに対し、ドビュッシーは終点に達してしまっているからである。

しかし、この文を読み直すと、何故(なぜ)作曲家[原訳:作曲者]としてのブゾーニ自身の音楽がブゾーニ[原訳:が]極めて活発に提出した理論的な概念と格闘するようになってしまったのか不思議に思われるのである。彼の作品は、彼の心と知性の賞讃すべき性質を反映している。彼の技量[原訳:技倆]は常に抜群であり、しばしば独創的な概念の閃き[ひらめき]を投げ、常に高尚で昂然[こうぜん]とした段階を動いていて、そして何時[いつ]も技巧及び美学的な方法の極めて高度な洗練[原訳:洗練さ]によって支えられている。しかし、余りにもしばしば、思想家ブゾーニが音楽創作の自然発生的な過程の間に入り込んでいた。そして、それに加えて、他の人々の音楽の巨匠的な解釈家ブゾーニが、自分自身の音楽の最終結末に決定的な影響を持っていた。例えばピアニストとしての[原訳:の]ブゾーニの追随者達はしばしば、彼が自分自身のピアノ演奏で創造的であり、自分自身の楽曲で再現的であったという必然的なパラドックスをもって、自分の演奏会のプログラムの楽曲の作曲家が実際に意図しているものと全く違うものを演奏したということを指摘していた。ブゾーニの音楽の創作は、常に誇張されたものであり、壮大な様式では印象的であるが、情緒的な内容という[原訳:の]点では冷たく、自然発生性と鋭利性[ママ][原訳:に]不足している。音楽についての彼の論説に於けると同じように、また彼の音楽に於いても[原訳:於ても]ブゾーニは貴族的でかたく結ばれた確乎[かっこ]とした威厳をもって語っていた。そして、聴く[原訳:きく]者は、単に音楽の高尚な縁遠さ[ママ]だけで感銘を受ける。ブゾーニの批判の一つがかつて指摘したように、『ブゾーニの中のメフィストフェレスは、ブゾーニの中でファウスト[原訳:ファースト]とたわむれていた。――というのはファウスト=ブゾーニは、音楽の本質を、「あらゆる美と力が源泉を持つ部門」を求め、永遠に『拒否し』――『汝は不自由すべきだ』――と叫びながら、自分の芸術で感覚的な誘惑を軽蔑しようと努力したが、一方彼の悪魔的な部分であるメフィストフェレス=ブゾーニは、世界の誘惑、リストの誇りと魔力、グランド・ピアノの偉大なる征服について彼の耳の中でささやいていたからである。ブゾーニは、長年の間ゲーテのファウストに音楽をつけようと夢みていたが、この大事業の前に怖れ[原訳:恐れ]をなして結局その観念[ママ]を拒否することとなってしまった。彼の最後の仕事として、ブゾーニは、ファウストの伝説に基づくオペラを作曲したが、それは、古いドイツの教訓劇に基づくものであり、台本は彼自身が作ったものであった。

恐らく、ブゾーニが古典的な形式で準備された安全さの中に避難することにより、永遠に自分への盲従から大衆に逃避していたということにより、ブゾーニの気質を最もよくまとめることができるのではないだろうか。不幸にも、彼は、例えばストラヴィンスキーがしたようには、その様式を近代化することには失敗した。しかし、彼は、素朴ではあるが人の心を動かす誠実さでそうした不朽の業績を模倣することで満足した。ブゾーニがドン・ジュアン・テノーリォ[ママ]による・・・ティルソ・デ・モリーナ[ママ]の劇について語ったことは、彼自身の大規模な作品にもまた適用するように適切に次のように解釈されていいかもしれない。即ち、『それらは力強い。音楽は、偉大な新鮮さと暢達さ[ママ]を持っている。それは大きい。そして同時に素朴である。』

世界は、第4楽章に厖大[ぼうだい]なタランテラを持ち、オランダの詩人アダム・エーレンシュレーガーの神秘的な詩のドイツ語訳を吟誦[ぎんしょう]するために目に見えない6声部の男声合唱[原訳:女性合唱]を要求する第5楽章を持つ巨大なピアノ協奏曲を素通り[原訳:す通り]してしまった。この協奏曲に対する霊感は、明らかにゲーテのファウストの第2部を締めくくる『神秘の合唱[原訳:神秘な合唱]』に由来した。他方、ブゾーニの短い作品と、成功に最も近かった初期の『喜劇序曲』(Lustspiel Overture)(1897年作、1904年改訂)や『ロンド・アルレッキネスコ』(Rondo Arlecchinesco)(1915年)のような作品は、今日(こんにち)主として新しい観念の産物としての重要性のために記憶されている。

何故(なぜ)かというと、ブゾーニが大きな影響を及ぼしたのは、観念の分野に属する[原訳:ぞくする]ものだからである。これまで見たように、ブゾーニは、標題音楽とロマン的な無形式の過剰を非難したと同じように、率直[原訳:卒直]に印象派的な曖昧さにも反対した。音楽は感覚的なものを除去し、主観性を拒否すべきであるという彼の主張、形式と表現が完全な均衡をとることができる新古典主義を達成しようとする彼の努力――こうしたものは、音楽家達が大規模な交響曲的な作曲と更に交響曲そのものからさえ転向した1920年代の音楽的な革命のための発生的な力を準備するという教義であった。正(まさ)しく、ブゾーニの影響は、単に第1次大戦の勃発に続く混乱時代でのブレーキとして作用したばかりでなく、また室内管弦楽を復旧するにも役立ち、作曲家達を楽器のアンサンブルのもっと小さな形態のものに帰らせ[原訳:帰らさせ]始めた。この意味では、ブゾーニは、ストラヴィンスキーとヒンデミットの偉大な名前によって代表される新古典主義運動で自分の役目を果たしていた。

ブゾーニの音楽の澄明さ[ママ]と形式の純粋さというラテン的な観念が最高度の表明を見出し、そして最も独創的で革新的な影響を与えたのは恐らくオペラの分野に於いて[原訳:於て]であろう。ブゾーニのオペラの永続的な性質は次の項の主題となるものである。(未完)[ママ]       

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2007年5月31日 (木)

福島県いわき市・いわき芸術文化交流館ALIOS

私の大切なお友達である足立優司さんが、4月に「三鷹市文化芸術センター」の音楽企画員の職を辞され、「いわき芸術文化交流館ALIOS」のプロデューサーに就任されました。私はそもそも、いわき市に関する知識が全くありませんでした。そこで、足立さんが先日、いわき市に関する説明を送ってくださいました。その情報を少し編集して、以下に記します。

いわき市は、4年ほど前までは日本最大の面積、つまり四国の香川県とほぼ同じ面積を持っていました。いわき市は今から40年前に、5市4町5村の合併によって誕生しました。その中心地は「平(たいら、旧平市)」ですが、「平」は江戸時代には磐城藩の平城の城下町であり、現在は市役所や、今回新しく出来るホールがあります。「平」と並ぶ大きな街は「小名浜(旧磐城市)」ですが、ここは江戸時代から漁港として栄え、近年は重化学工業港として東日本で第2位になっています。また、長く本州最大の常磐炭坑のあった「湯本(旧常磐市)」は、日本アカデミー賞を取った映画「フラガール」の舞台です。ここは、「ハワイアンズ」があるところですが、ひなびた温泉街の町並みもあります。東北の入り口として奈良時代から続く「勿来(なこそ、旧勿来市)」は関所として有名ですが、クレハと日本製紙の工場があり、東北電力のプラントもある工業地帯です。そして、常磐自動車道「いわき中央インター」から近い、平と隣接した「内郷(うちごう)」があります。以上の5つの地域がそれぞれの地域性を保ったまま発展してきたのが「いわき市」です。ちなみに、福島県は横長であり、縦に3つの地域に分かれていて、それぞれを山地が隔てています。一番西は「会津」、真ん中は郡山、福島を含む「中通り」、そして太平洋に面する、南のいわきと北の相馬のある「浜通り」です。相馬は馬追いで有名でしょうか?その中でもいわきは、どちらかといえば「常磐」つまり常陸(=茨城県)との繋がりが最も強く、また東北とはいえ雪がほとんど降らない温暖な気候で、福島県の中でも独特の地域性を持っています。              

詳しくは、お勧めサイトの『ハワイアンズで常夏気分!』『いわき芸術文化交流館ALIOS』などをご覧ください。

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2007年4月30日 (月)

日下四郎訳『ルドルフ・ラバン――新しい舞踊が生れるまで』刊行

以前からお知らせしていた日下四郎訳『ルドルフ・ラバン――新しい舞踊が生れるまで』(大修館書店)がついに刊行されました。日下先生の解説が非常に適切であり、この本は、日本で出される初めての本格的なラバン研究書、或いは極めて知的レヴェルの高い読み物と言えましょう。実を言うと、私はラバンの原著をほとんど所有してはいます。しかし、ラバンのドイツ語も英語も極めて変則的なため、書かれた背景や内容がよく分かっていないと訳出どころか正確な内容の把握も出来ません。「高校生レヴェルの直訳」や「アバウトな意訳」をしたために、惨憺たるありさまに陥ってなっている訳を、多々見かけます。従って、私の力量で訳しても、それらの二の舞になるだけなので、全訳はとうの昔に諦めています。そういう意味で、卓越した日本語力とドイツ語力をお持ちの上、舞踊の背景もよく分かっていらっしゃる日下先生は、最初で最後のラバン翻訳者と言えるのではないでしょうか?特にラバンによる合成新語に関しては、リサ・ウルマンの英訳より的確で気のきいた和訳になっていること請け合いです。また、原著には載っていない写真も重要度の高いものは選択して掲載されており、資料としての価値も高い本です。これだけの労作が2310円で買えることは、滅多にないと思います。舞踊の分野では、今年のお勧めの本No.1でしょう。

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