カテゴリー「文化・芸術」の記事

2009年2月 7日 (土)

ライヒテントリット著『Music, Histry and Ideas』に見られるブゾーニ

ライヒテントリット、フーゴー『音楽の歴史と思想』(Hugo Leichtentritt, Music: 
History and Ideas. 1950.) 服部幸三訳、東京:音楽之友社、1959年。
p.30406
 ヴァーグナーに対抗して20世紀の新芸術を作り出す次の歩みは、ベルリン、ウィーン、ペテルスブルグで起こった。ベルリンではフェルッチォ・ブゾーニが20年間、何か本質的に新しいものをまじめに生み出そうとするあらゆる思想の擁護者になった。比類ないピアノの名手、作曲家、指揮者、教師、随筆家、芸術哲学者であったブゾーニは最高の芸術家、知的タイプに属する優れた人物であった。 彼は現代運動の焦点に立ち(←位置し)あらゆる傾向を知り尽くし、全てを厳格に吟味して、ある物は是認し、ある物は撥ねつけた。ドビュッシイとラヴェル、デリアスとシベリウス、ストラヴィンスキーとシェーンベルク、カセルラ、マリピエロ、ピツェッティ、バルトーク等は、すべてブゾーニに事細かに知られていた。

 ほとんど毎晩のように客を迎える彼の住居、ベルリンのヴィクトリア・ルイゼ広場11番地には、各国から集った若い芸術家達の会合があった。この会合では、誰もが自由に発言し、当時の芸術上の問題について論争が闘わされ、ブゾーニのエスプリと機知(ウィット)、優れた理解力、成熟した判断力、素晴らしい批評が加わることによって、またとなく輝かしいものであった。おそらく、混乱した国家主義的な、みじめな現代には、このような集まりはもうあり得ない。それは実際、我々がプラトンの鮮やかな筆の運びを通じて知っているソクラテスの談話会(饗宴)シンポジウムの一種の現代版であった。

 ブゾーニの驚くべき多才は彼の作曲に表われているが、二三のバッハの編曲を除けば、アメリカではほとんど知られていない。彼は種々の新傾向を全て選り分け、それをエキスに煮詰めて、自分の個性的な表現法の根本的特質には重大な影響を及ぼすことなしに、不思議な香りを添えている

 この長い蒸留過程を通じて、彼は遂に本当に価値のある要素の高度に凝縮された本質を手中に納めた。そのような絶え間のない精錬、高い精神と高度に煮詰められた本質、非本質的通俗的なものの完全な排除、この上なく複雑困難な問題のごくあっさりとした提示のために、彼のスタイルは幾分いかめしい近づき難いものになっている。親しみ易い特性は、明るいイタリア風の旋律が時折暗示されるのを除けば、ほとんど見られない。そのために、彼ほど偉大な芸術家のこの上なく価値の高い音楽が、ごくわずかしか知られていないという不思議な事実が生まれてくる。実際、彼はごく稀な教養の高い潔癖な鑑賞家の内輪のサークルにだけ話しかけるのである。

 自分の芸術上の遺書として彼は、詩的にも非常に優れた自作のリブレットに基づくオペラ《ファウスト博士》を書いた。《ファテウスト博士》は最も立派な現代作品の一つであるが、難解さと思想の超越性のためにオペラ通いの大部分の大衆にはおそらく理解されることがないだろう。だが、ドイツでは、音楽祭の催しには繰返し演奏されており、この作品の高い水準についてゆける人達には、いつも深い感銘を与えている。 血筋も、教育も、半ばドイツ、半ばイタリアに育ったブゾーニは、個性と芸術の面でも二つの国民性を合わせている。イタリアの活気と陽気さ、単純さ、明瞭さ、形態の優美さに、ゲルマン民族のファウスト的な知性、理想主義、内容の深み、感情の強烈さが融け込み、その結果、彼の芸術はほとんど並ぶものがないユニークなものになっている。 

 彼の究極の理想は、彼が最も熱烈に尊敬していた大家、バッハとモーツァルトに基づく新古典主義であり、彼の狙いは、バッハの構成技術と複音楽の論理、モーツァルトの明快さと優美さに、現代の和声と管弦楽法の全ての成果を結び合わせることであった。

 ブゾーニの新古典主義はイタリアにも、ドイツにも、かなりの影響を及ぼした。ヒンデミットとエルンスト・トッホ、イタリアのカセルラ、マリピエロ、ピツェッティの音楽にはその傾向が認められる。...

                                         

p.261   19世紀が、最も積極的に貢献したのは、再現的な音楽芸術であり、それは以前にはない大きな成果を収めた。素晴らしい才能を持ち、完全な技術を身に付けた芸術家達が、前の時代には未知のものであった感銘の深さと暗示力をもって、偉大な大家達の作品を演奏した。ピアニストにはショパン、メンデルスゾーン、リスト、ルービンシュテイン、ビューロー、タウジッヒ、ダルベール、パデレフスキー、ブゾーニがあり...

p.265  とりわけ注目されるのは、...ホフマンのバッハについての言葉である。

「特に、偉大なゼバスティアンの楽譜に目を触れる時、数の音楽的な比例、いやむしろ対位法の神秘的な法則そのものが、心に戦きを呼び起こす瞬間がある。音楽よ! 神秘な畏れの念に満ちて、私はお前に呼びかける。汝、音に描かれた自然のサンスクリットよ!」

p.272   リストは風景の印象を音楽に表現する新しい可能性を開いた。殊にスイスとイタリアの旅行の印象を、非常に暗示的、絵画的に表現したピアノ曲《巡礼の年》は、大家が演奏すれば、いつも新鮮で魅力的に響くブゾーニは、この作品を弾いて驚くほどの印象を与えたが、それはドビュッシイの音楽さえ凌ぐものであった

ライヒテントリット、フーゴー『音楽の歴史と思想』

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2008年12月10日 (水)

アポロン(Apollon)とディオニュソス(Dionysos)

人は人間としての幅があればある程、魅力的だと思うのですが、その最たる場合を説明するために、「アポロン的要素とディオニュソス的要素を併せ持つ人」という表現を使ってみます。

Akiko06_4私には難解すぎて手がつけられないまま実家に死蔵されているドイツ系の文学書・哲学書のうち、ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844~1900)の『Die Geburt der Tragödie aus dem Musik 邦題 音楽の精髄からの悲劇の誕生(秋山英夫訳) または 悲劇の誕生――音楽の精神からの(西尾幹二訳)』をほんの少し、実感を伴って読めるようになりました。

秋山英夫先生の訳注では、アポロとディオニュソスが以下のように対比解説されています。(『悲劇の誕生』秋山英夫訳、岩波書店、230ページより引用)

アポロは光明と明晰の神。ディオニュソスは酒と陶酔の神バッカスのギリシア名。
素姓・・・アポロ→純ギリシアの神。ディオニュソス→トラキアのデーモン(鬼神)。
住居・・・アポロ→天界。ディオニュソス→大地、下界。
聖獣・・・アポロ→白鳥、イルカ。ディオニュソス→雄牛、豹(ヒョウ)、ライオン、蛇(ヘビ)。
植物・・・アポロ→月桂樹。ディオニュソス→常春藤(キズタ)、葡萄(ブドウ)。
奉仕者・・・アポロ→ミューズの女神たち。ディオニュソス→酒神信女(マイナデス)。
礼拝・・・アポロ→静的尊信。ディオニュソス→興奮的狂騒的密儀。
犠牲・・・アポロ→供物をする。ディオニュソス→いわゆる聖餐(せいさん)様式で、神自身(=雄牛)が犠牲にされ食われる。
音楽・・・アポロ→荘厳な格調ある音楽。ディオニュソス→騒々しい舞踏音楽。
特性・・・アポロ→冷静な自己抑制。ディオニュソス→陶酔、狂気。                                          

ちなみに、アポロン的要素とディオニュソス的要素を顕著に体現している過去の芸術家は、モーツァルト、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ブゾーニ・・・他にもいるでしょうが、私が興味を持っているのはこの3人です

芸術は、アポロ的なものディオニュソス的なものとの二重性によって進展していく。ちょうど生殖が、たえず争いつづけ、わずかに周期的に仲直りする男女両性の対立によって子どもをふやして行くのと、様子がよく似ている。このことをもしわれわれが論理的に理解するばかりではなく、直観によって、直接たしかめることができたら、美の学問のために得るところ多大なものがあるといえよう。(西尾幹二)

もしわれわれが以下述べるようなことを頭で理解するだけでなく、直接、具体的に確信できるようになれば、美学に寄与することは多いと思う。すなわち、芸術の発展というものは、アポロ的なものディオニュソス的なものという二重性に結びついているということだ。それはちょうど生殖ということが、たえずいがみあいながら、ただ周期的に和解する男女両性に依存しているのに似ている。(秋山英夫)

皆さんに私の境地(?)を理解して頂き易くするため、ドイツ語の原文は掲載せず、西尾幹二先生の訳と秋山英夫先生の訳を並べて掲載してみました。「論理的に理解するばかりではなく、直観によって、直接たしかめる」または「頭で理解するだけでなく、直接、具体的に確信できるようになる」ことを実感しています。そうすると、大学の哲学科に入学したばかりの現役大学生などに、「ニーチェの言動を理解せよ」と言うのは無理なことであろうと思われます。つまり、彼らはそもそも具体例に出会うことがなく、もし出会ったとしても感じ取れる感性が養われていないので、ニーチェの言っていることがチンプンカンプンだと思えてくるのです。

アポロとディオニュソスという二つの名称を、われわれはギリシア人から借りうけている。ギリシア人は、深遠なる奥義ともいうべきこの芸術観を、概念によって表わすことはしなかったが、神話の世界のあざやかなほど明晰な神々の姿をかりて、見える者には、見えるように表わしている。(西尾幹二)

アポロ的とディオニュソス的という名称は、ギリシア人から借用したものである。彼らはその芸術観の奥深い教えを、概念的でないにしても、彼らのつくった神々の世界の鮮明な二柱の神のうちに、目のある人にはわかるようにしてくれているからだ。(秋山英夫)

私は自分を「見える者」「目のある人」と思っていました。人物に対する審美眼には妙な自信がありました。しかし、2008年4月以後は、かつてのように「メドゥサ」ぶるのをやめました。・・・              

                     (Under Construction)

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2008年9月14日 (日)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 3-1

Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg:

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Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ論文『フェルッチオ・ブゾーニ――1つの再評価――オペラに於ける集約』

音楽の革新についてのブゾーニの教義は、次第に、第1次世界大戦の混乱から発した若い世代の音楽家達への刺激によって大部分実現されるに至った。不幸にも、ブゾーニ自身は、音楽の革命の全衝撃を立証するために生きていたのではなかった。しかし、1924年の彼の死の頃までには、感覚性と主観性は排除され、そして音楽が感情或いは心理的な状態を表現することができるというロマン的な概念は、音楽作品が単に音楽の創作自体の秩序のある構成的な進行を表現するという概念に乗っ取られて[原訳:乗りとられて]しまった。こうして、ブゾーニの透明性[原訳:澄明性]、形式及び内容に関する見解と、ただ音楽の法則だけが楽曲を支配するという彼あの教義は、ブゾーニに続く人達の作品に根を張った。ドイツでは、音楽にこうした新しい概念を導入することは、痛烈に、そしてシェーンベルク、ストラヴィンスキーそれからヒンデミットへの反動で最も顕著に反対された。こういう20世紀の音楽の3つの巨人の大きな姿を世界に明示するには、もう10年或いはそれ以上も必要としたが、彼等の最終的な肯定は、みな違った方法ではあるが、ブゾーニの教旨[ママ]で与えられた知的な基礎と刺激によってもたらされ得たのであった。

                        ☆☆☆☆

ここで、ブゾーニの美学的な原則が彼のオペラでどのように最も純粋に応用され、表明されたかを調べることが残されている。ピアニスト、作曲家、思想家としてのブゾーニの3重の能力にも拘[かかわ]らず、ブゾーニは、1つの芸術的な次元に自分を置いていた。ブゾーニは、常に、自分の芸術家としての全使命が表現法の1つの不可分な統一体、つまり1つの『総合[原訳:綜合]芸術作品』であると主張していた。ほとんどその生涯の終わり[原訳:終り]でも、彼は、自身[原訳:自体]のオペラ『ファウスト博士』の有名な序文を次のように書いて、音楽の本質と単一性をやはり強調していたのであった。

『時代は、「統一体」として音楽の全現象を認識する[原訳:認める]ようになってきて、もはやその目的、形式、音の媒体によって音楽を区別するということはなくなった。専[もっぱ]ら内容と特質という2つの前提から音楽は認識される[原訳:認められる]べきである。・・・目的ということは、自分ではオペラ、教会及び演奏会の3つの分野の1つを意味し、形式とは、歌曲、舞曲、フーガ或いはソナタを意味し、音の媒体とは、人の声や楽器の選択を指す。そして、楽器の中には、管弦楽、四重奏、ピアノ或いはそうしたものすべてのものの多様な結合が含まれる。』

こうして、オペラは、ブゾーニにとっては、型の点から優劣があるにしても、独立した『ジャンル』を作るものではなかった。ブゾーニの音楽の単一性という根本的な概念では、台本、衣裳、振付[原訳:振附]、劇場的な神秘主義のようなオペラの組成成分[原訳:組成々分]は、すべて単一の音楽的な機能の要素なのであり、『どこでそしてどんな形で現われようとも、音楽は専ら[もっぱら]音楽として存続し、他の何ものでもなく、しかもただ幻想を通じて、題名と表題或いは台本により音楽に与えられた説明及びその音楽の状態を通じて、特殊な範疇に入れられるにすぎない。』

ヴァーグナーに反対して、ブゾーニは、オペラでは『感覚的或いは官能[原訳:性欲]的な音楽は明らかにこの芸術の本質そのものによる地位から外れている』と断言した。オペラは、あらゆる劇場の因襲的な慣例から解放されるべきであった。彼は次のように書いた。

『オペラの総譜は、所作に適合している一方、所作から離れて、一つの完全な音楽的な絵画を見せなければならない。・・・事実、オペラを作曲することは、現われるあらゆるものの暗示的な将来と過去の・・・   

                               (Under Construction)      

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2008年5月31日 (土)

ブゾーニの美学2

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

ブゾーニの「哲学的センスの良さ」ないし「男としてのかっこ良さ」が台本の中に充分表れているオペラ《トゥーランドット Turandot》の一場面を、ご紹介しましょう。古代中国皇帝の一人娘トゥーランドット Turandot は、求婚者カラフ Calaf(実は身分を隠した西国の王子様・ブゾーニの自己投影)に3つの難題を出します。姫の出す難題に答えられなかった今までの求婚者たちは死刑に処されたのですが、カラフは3つの難題にことごとく正解し、すっかりトゥーランドットの心を捉えます。

トゥーランドット・第1の問い
「地を這い(はい)、天に向かって飛ぶ。暗闇を探り、光を放つ。過去を振り返り、未来のために努める。古きを守り、新しきに目覚める。思慮深いが、しばし逆らう。健やか(すこやか)で、しかも病んでいるものは何?」

カラフの答え
「地を這い、天を飛ぶ。暗闇を探り、光を放つ。古きを守り、新しきに目覚める。自らの世界を織りなし思慮深いが、しばし逆らう。それは、人間の分別。」

トゥーランドット・第2の問い
「常に変わらず、しかし常に変化を続ける。今日命じられたのに、明日は禁じられる。ここで褒められたのに、あちらでは罰せられる。初めに守られたのに、後にあざけられる。黙っているが、なくてはならぬ掟。なくても困らず傷もつかないものは何?」

カラフの答え
「変化しながらも存続し、空っぽの概念ながら習慣として生き続け、ひとたび用がなくなれば、物笑いの種となる。それは、道徳。」

トゥーランドット・第3の問い
「時の根から、人間を支える幹から、習慣という枝から、この上なく美しい花が咲く。全ての人が惹かれる(ひかれる)が、それを持つ者は少ない。霊感を授かった者だけが、それを治め、全てを守り、全てを変え、人の世を明るくするために天から与えられたものは何?」

カラフの答え
「時の根から、人間を支える幹から、習慣という枝から咲いた、この上なく美しい花。全ての人が出会うけれども、一握りの人だけに聴くことが出来、感じることが出来、考えることが出来、見つめることが出来るもの。これこそ天の恵み、大地の口づけ。それは、芸術。」

拙訳ゆえ、もっと良い訳をご存知の方はご教示ください。私がブゾーニの《トゥーランドット》を初めて観たのは、1988年のことです。何度も観たプッチーニの《トゥーランドット》を始めとする、他の陳腐な脚本の問答に比べ、何と含蓄ある問答だろうか!と感銘を受けました。それ以後ますますブゾーニの大ファンになり、今日に至っている次第です。ただし、2番目の道徳に関しては、2006年1月8日以後、ブゾーニの台本よりも良い表現がある、と思うようになりました。

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2008年3月31日 (月)

ポール・グリフィス『現代音楽小史』におけるブゾーニ記述

ポール・グリフィス『現代音楽小史―ドビュッシーからブーレーズまで』( Paul Griffiths, A History of Modern Music―from Debussy to Boulez. London, 1978 )石田一志訳、東京:音楽之友社、1984年)

アーノルト・シェーンベルクに関する記述のあとで

p.19-20

半音階主義に秩序を与えるための手段としてバロックに復帰した別の作曲家としては、イタリア系ドイツ人の作曲家兼ピアニスト、フェルッチョ・ブゾーニ(1866~1924)がいた。彼の広い視野は、ドビュッシー風和声、北米インディアン音楽、ロマン派のレトリック、イタリア・ルネサンス期への生き生きとした関心にまでおよんでいる。彼はいくつかの面でマーラーの逆であった。つまりこの人物は、すべての経験に心を開いていたが、外側からそれを見ていたからである。彼の傑作、オペラ《ファウスト博士 Doktor Faust 》(1916―24)は、自叙伝というよりも、もっとなぞに満ちた神秘的な劇ではあるが、普遍的知識を求めるファウストにブゾーニが共感を寄せていたことは、疑いないものである。彼は、とてつもなく変化に富んだ作曲家であったが、しかし音楽作品の中では決して《新音楽美学提要》(1907、増補1910)のなかに書いたほどに挑戦的なことは敢行していない。この著作のなかで彼は、急進的に新しい音階の可能性や、電子音楽の可能性まで述べているからである。もっとも、これはあいまいで夢以上のものではないが。・・・

Under Construction

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2008年2月29日 (金)

ヴァルター・ギーゼラー 『20世紀の作曲』のブゾーニ記事

Ben_nichlson_1945

上の絵画はベン・ニコルソン Ben Nichoson(イギリス・1894~1982)による1945年の作品であり、ギーゼラー著に掲載されているものではありません。

Walter Gieseler: Komposition im 20. Jahrhundert. Details-Zusamenhänge
©1975 by Moeck Verlag+Musikinstrumentenwerk, D3100 Celle

20世紀の作曲――現代音楽の理論的展望 佐野光司訳 音楽之友社 1988年

(39ページ)
フェルッチョ・ブゾーニは、1オクターヴをさらに細かく分割する可能性に注目した最初の人というわけではないが、その著書『音楽芸術の新しい美学の構想』(1907年)で、全音の3分割、4分割、6分割を提案して多大な影響を与えた。彼自身は、アメリカ人タデウス・ケーヒルが新たに作製した装置(1906年)から刺激されたのだが、その装置は、電気的手段により、思いのままの振動数を、すなわちどんな小さな分割による高音をも生み出すことを可能としたものであった。ケーヒルの場合には、おそらく純粋に技術的な興味が問題となっていたのに対し、ブゾーニの場合には純粋に作曲上の関心が中心にあった。

(41ページ)
作曲の上で、微分音程の音階が微分音システムを形成するほどになるかどうかは、いまのところ現実にはまだ見きわめられない。新しい様々な微小音程の素材の山は、相互関係を有する1つのシステムをまだ保証してはいないのだ。これに対して――ブゾーニがケーヒルの考案した装置に熱中したことは、後に多大な意義をもつことになるのだが――電子音楽は、微分音の実験の実際的な受け継ぎ手と言える。というのは、電子音楽にあっては、微小音程は完璧なものとされるし、また、等しい音程の音楽でも多様な音程の音楽でも、正確に表現され、関連づけがなされ得るからである。

(129ページ)
「音楽の内なる形式」とは、ある構造を、聴きつつある体験である。もちろん、聴きながらそのようなものとして把握できないような構造(たとえばセリエルな構造)もある。それらはそれゆえ、ここで言う意味における形式とはなり得ない。なぜなら感覚的に直観されるもののみが形式にもなり得るからだ。しかし知覚は常に、ある知覚する個人と結びついているので、音楽形式の把握は(形式一般の把握と同様に)、個人的にのみ実現され得る。したがってその把握は、個人的に常に変更され、更新され得よう。したがって、ある人がセリエルな音楽を聴いて形式を発見することは、個人的には極端な例として考え得るであろう。しかしそれは、現在の段階では、その音楽のセリエルな構造が把握され聴取されたのではなく、その中の別のアスペクト、つまりその構造自体でおそらく看過(かんか)されていたようなアスペクトが把握され聴取されたのだ、ということの方が受け入れられやすい。

(130ページ)
美的なるものの定義、それゆえにまた形式の定義は(ヘラクレイトスによれば)「内に異質なものを含んだ一(いち)なるもの」である。これによれば統一と対立は調和せねばならないことになる。絶えまなく更新され、変化しつつ、純粋な時間に従う音楽は、このような原理を満足させはしない。なぜなら、対立は把握可能な音楽的「形態」に接してのみ、つまり不変項に接してのみ経験できるものであり、また統一性は同一性と類似性に接してのみ経験されるからである。今日の音楽における形式の危機が(アドルノの言うように)再現に対する倦怠感の中に見られるとすると、この危機感は安易に放置できない。むしろ原理的な性格をもっていることがわかろう。

(131ページ)
形式観念、形式原理には時代性がついてまわる。その意義は増えたり減ったりするのだ。ソナタ形式の後には、拘束力の強い形式はなにも育たなかった。1900年頃には、調性とともに受け継がれてきた形式もその効力を失ったのである。

ブゾーニは嘆いている。人々は作曲家にオリジナリティを期待するものの、同時に生き残った形式図にも忍従するように強いるのだと。このような嘆きは、新古典主義の時代に、たとえばストラヴィンスキーが古い形式に従ったことにまさにその使い古された様態を示し、目をパチクリさせるようなアイロニーと化している。

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2007年9月30日 (日)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 2-2

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 2-1 の続き

しかし、こうしたことがみな考慮され、正当に斟酌[しんしゃく]された時に、しかも自身の作品で彼の高い意図を遂行[すいこう]することができなかった有能[原訳:有力]な個性[原訳:個人]に我々は出会うのである。ブゾーニの賞賛者[原訳:賞讃者]達は、彼の思想と彼の前後[ママ]に対する彼の見識の峻厳[しゅんげん]さと複雑さのために彼はその世代の人達から離れてしまい、現在になってやっと我々が彼の意図の全貌を認め始めていると主張する。しかし、現在との不和の中に彼[ママ]を置いているものがブゾーニの思考の中には沢山[たくさん]ある。すでにこの論説の第一部で見たことなのだが、ブゾーニは、音楽の発展について[原訳:発展の]現在流行していない教義を提案[原訳:提出(beantragen に相当するイタリア語の訳出と推測)]した。例えば、彼は、次のように書いて、歴史的な見解を述べた。

『新来者達は、自分達がすべての先達者[原訳:先輩]と関係を絶つことが出来る[、]或いは関係を絶ったと考えて、自分自身を欺いている。この考えは、彼等の確信にも拘らず[かかわらず]、正当なことではない。何故[なぜ]かというと、如何[いか]なる子供も、母を持っていて、生れた後でさえもこの母とは臍[へそ]によってやはり結ばれているからである。これらの最も若い新来者は、事実、自分自身想像するほどには独創的ではない。他方、人間の眼が前方を向くように仕組まれているということは否定できない。というのは、人間が現在は生きているのならば、その時にのみ、この人間はどうやら存在する資格があるからである。』

そして後に、同じ論説で、彼は、『まず立派な発明者である人は、後方に戻り[、]そして改革者となるのだ』と宣言している[。](『現在の出来事とは何か。』日時不明のブゾーニの遺稿の中から発見された自筆の原稿による。『音楽の本質』という題でブゾーニの数々の著作を集めて[原訳:集めた]ロザモンド・レイの英訳で初めて出版された。)

このことは、発明者と改革者がまたブゾーニの中で主権を得るために争っていたことを示している。

我々はブゾーニを非難する人(中でもハンス・プフィッツナー[原訳:フィッツナー])と今日のブゾーニの追随者[原訳:追従者]との中間の道に舵をとり[取り]、こうしてブゾーニの作品の生きている幹から死んだ枝を切り離そうと思う。発明者として、ブゾーニは、音楽の語彙を拡げる問題、特に新しい音階によって準備された旋律的及び和声的[原訳:和声的な]拡張の可能性に没頭した。彼は半音を3つの部分に分割することをすすめた。彼の見解では、こうした音の調整法は、4分音よりも耳で容易に把握できる筈[はず]だという[言う]のである。この全音の3分の1の体系で、ブゾーニは丁度136の音階[原訳:そのような音階]を作ることができ、『これは古典的な体系が1本の[原訳:絃]の楽器だけによるものに対して芸術的材料の拡張である』と主張した。[注:斜線部分は、マルセル・グリリの誤解であり、後続のブゾーニ研究者もこの誤解を踏襲している。ブゾーニが元々別の概念であった「3分音」と「音階」について、同じ本の中で隣合わせて書いているため、このような誤解が生れたのであろう。山田]

旋律の機能に関して[原訳:関しては]、ブゾーニは、『旋律は潜在的な和声を含む』し[、]また『律動的に明瞭で生気を与えられていなければならない』と要求した。この論説の第1部で述べたことだが、『若き古典主義』という語を用いて、ブゾーニは」『これまでのあらゆる実験の累積を篩い[ふるい][、]そして利用するという熟達さ[注:この訳語が適切でないことは分かっているけれども、目下、代替案が見つからないためそのまま記載:山田]とそれをしっかりした美しい[原訳:形成]にこめること』を強調しようとした。そして彼は、次のように書いて、他のあらゆる手段に打ち勝つ旋律の勝利を予言するところまで進んだ。

『若き古典主義ということで、自分は、主観的であるものから明確に出発すること、あらゆる声とあらゆる情緒(楽しい動機という意味ではなくて)の支配者として、そして観念の運搬者及び和声の生産者として再び旋律へ復帰すること、簡単にいえば[言えば]最も高度に展開された(最も複雑なというのではない)ポリフォニーを含包するのである』(ハンス・プフィッツナー[原訳:フィッツナー]との論争の際に書いたパウル・ベッカー宛の書簡、1920年2月27日)

それから、ブゾーニは、モーツァルト、ベートーヴェン、ヴァーグナーの芸術に対し、技巧上の発見が増加することは、常に旋律的な発明が減少していることの理由になると述べている。彼によると、技巧上の熟達はあたかも[原訳:あたかも技巧上の熟達は]、尋常でない[原訳:異常である]ことによりその効果を更に[さらに]強めることができ、旋律的な表現は、ただ親しみやすいということによってのみ効果を上げることができるとも思えるほどである。しかし、彼は更に[さらに]次のように論を進めてゆく。

『実際問題として、モーツァルトは、その先輩達よりもずっと豊かな旋律の作者であった。ベートーヴェンは、モーツァルトよりも闊達[かったつ:原訳:濶達]で妙を得た旋律を書く。ヴァーグナーは、ベートーヴェンよりも高尚で心理学者的ではないにしても、華美で(艶麗で)、従属的で[ママ]官能的で個性的[原訳:特性的]な旋律を作る。一群の作曲者達が反動を試みるのは、こうした唯物主義に対してなのである。』(『将来の音楽の旋律についての観念』カリフォルニアのロスアンゼルス[ママ]からの妻に宛てた1911年3月15日の書簡の中で初めてブゾーニが記し、後に、1912年7月の Zeitschrift für Musik の中に論説として現われたもの)。

アーノルト・シェーンベルクほどの大家もブゾーニがオペラの改革の分野での第1位にいることを認めている(シェーンベルクの‘Style and Idea’ニューヨーク[ママ]1950年の219頁以下を見よ)。ブゾーニの対位法的で線的な様式は、彼の弟子のエルネスト・クシェネックとクルト・ワイルが1920年代と1930年代の初めの間に演出した初期のオペラ、特にワイルの『人質[原訳:抵当]』Die Bürgschaft(1932年)にとっての大きなそして必要な要素[原訳:成分・原語はBestandtailに相当するイタリア語と推測]として役立つこととなった。

最後にブゾーニの管弦楽的な楽器用法についての見解もまた、彼[原訳:の]同じ時代の人達の大部分の見解と反対の方向に進んでいた。特殊な楽器の色彩或いは『特別な効果』を開拓するために、その個々の楽器の能力と限界についての明確なそしてほとんど卑屈な[ママ]ばかりの注意によって、種々の楽器のために音楽を書くということが同時代の人々の大部分の目標であったのに対し、ブゾーニは、『管弦楽は単一の楽器、あらゆる器官[ママ]が同時に働く連結された組織として考えられなければならない』と弟子達に想い起こさせていた。彼自身の言(げん)では、彼は、楽器から個々の特質をとり除くこと――これを彼は『個性除去』(Entindividualisierung)と呼んだ――そして、如何(いか)なる特殊な音の性質にも独立的な、抽象的な音楽的観念の表現のための方法として、そうした楽器のために『その性質そのものに対抗して』(gegen ihre Natur)音楽を書くことを目指した。

                       ☆☆☆☆

ブゾーニの音楽の刷新、特に半音階を精巧にするということに対する彼の示唆と彼の技巧の分析についての見解は、シェーンベルクへの道を開いた。1925年にベルリンのプロイセン芸術アカデミーで教授としてブゾーニの後をついだのがシェーンベルクであったことに注意[原訳:を注意]しておくのは、興味深い[原訳:興味のある]ことかもしれない。1909年にさかのぼり、ブゾーニが極めて少数の『未来派』の中で、作品11のシェーンベルクの第2ピアノ曲集のブゾーニの演奏会版から証明されるように、シェーンベルクの音楽の美点を認めていたということは、一層大きな興味のあることである。

というのは、そういう時代に、実験と『内容と芸術的な永続性の不利な立場のための表現手段の過大な重要視』の時代が頂点に達し、次の局面には古典的な形式と純粋性の復活をもたらすとブゾーニは信じていたからである。1912年に書かれた『自己批判』と題する論説で、ブゾーニはドビュッシーの目的と作曲者としての自分の目的とを区別した。ブゾーニの書くところによると、『ドビュッシーの芸術は、彼の個性的ではっきりとした明確な感情を彼自身の本質から外部の世界へと推進させている。自分は、人間をとりまく宇宙に接近し、それを創作された形式の中に還元しようと努める。』そしてブゾーニは更に直截的に次のように続けた。

ドビュッシーの芸術は、アルファベットの中から多くの文字を打って作り出す限界を暗示し、学者ぶった詩人風の遊戯、つまりAとRを省略した詩を書くことの例に従っている。自分は表現のあらゆる手段と形態を豊富にし、拡張し、拡大するために努力する。
ドビュッシーの音楽は、極めて多様な感情と状態を同じような音の公式で解釈している。如何(いか)なる主題に対しても、自分は、それぞれ異なった適切な音を見つけ出そうと努力してきた。ドビュッシーの音の構図は、並行で単音楽的である。自分は、ポリフォニーで『多行的』であることを自分のものに望んでいる。ドビュッシーの音楽の中では、和声的な基礎として属九の和音、旋律的な根底としての全音が、それぞれ融合することなく認められる。自分は、如何なる体系も避け、和声と旋律を分離できない一体のものに向かわせようと[原訳:向かせようと]努めている。彼は、協和と不協和を分離している。自分は、この相違の詳細を教える。自分は、「試み」、「欲し」、「努力した」のである――自分は、それをこれまでに十分に或いは包括的になしとげたということではない。というのは、自分は、端緒を作っていると感じているのに対し、ドビュッシーは終点に達してしまっているからである。

しかし、この文を読み直すと、何故(なぜ)作曲家[原訳:作曲者]としてのブゾーニ自身の音楽がブゾーニ[原訳:が]極めて活発に提出した理論的な概念と格闘するようになってしまったのか不思議に思われるのである。彼の作品は、彼の心と知性の賞讃すべき性質を反映している。彼の技量[原訳:技倆]は常に抜群であり、しばしば独創的な概念の閃き[ひらめき]を投げ、常に高尚で昂然[こうぜん]とした段階を動いていて、そして何時[いつ]も技巧及び美学的な方法の極めて高度な洗練[原訳:洗練さ]によって支えられている。しかし、余りにもしばしば、思想家ブゾーニが音楽創作の自然発生的な過程の間に入り込んでいた。そして、それに加えて、他の人々の音楽の巨匠的な解釈家ブゾーニが、自分自身の音楽の最終結末に決定的な影響を持っていた。例えばピアニストとしての[原訳:の]ブゾーニの追随者達はしばしば、彼が自分自身のピアノ演奏で創造的であり、自分自身の楽曲で再現的であったという必然的なパラドックスをもって、自分の演奏会のプログラムの楽曲の作曲家が実際に意図しているものと全く違うものを演奏したということを指摘していた。ブゾーニの音楽の創作は、常に誇張されたものであり、壮大な様式では印象的であるが、情緒的な内容という[原訳:の]点では冷たく、自然発生性と鋭利性[ママ][原訳:に]不足している。音楽についての彼の論説に於けると同じように、また彼の音楽に於いても[原訳:於ても]ブゾーニは貴族的でかたく結ばれた確乎[かっこ]とした威厳をもって語っていた。そして、聴く[原訳:きく]者は、単に音楽の高尚な縁遠さ[ママ]だけで感銘を受ける。ブゾーニの批判の一つがかつて指摘したように、『ブゾーニの中のメフィストフェレスは、ブゾーニの中でファウスト[原訳:ファースト]とたわむれていた。――というのはファウスト=ブゾーニは、音楽の本質を、「あらゆる美と力が源泉を持つ部門」を求め、永遠に『拒否し』――『汝は不自由すべきだ』――と叫びながら、自分の芸術で感覚的な誘惑を軽蔑しようと努力したが、一方彼の悪魔的な部分であるメフィストフェレス=ブゾーニは、世界の誘惑、リストの誇りと魔力、グランド・ピアノの偉大なる征服について彼の耳の中でささやいていたからである。ブゾーニは、長年の間ゲーテのファウストに音楽をつけようと夢みていたが、この大事業の前に怖れ[原訳:恐れ]をなして結局その観念[ママ]を拒否することとなってしまった。彼の最後の仕事として、ブゾーニは、ファウストの伝説に基づくオペラを作曲したが、それは、古いドイツの教訓劇に基づくものであり、台本は彼自身が作ったものであった。

恐らく、ブゾーニが古典的な形式で準備された安全さの中に避難することにより、永遠に自分への盲従から大衆に逃避していたということにより、ブゾーニの気質を最もよくまとめることができるのではないだろうか。不幸にも、彼は、例えばストラヴィンスキーがしたようには、その様式を近代化することには失敗した。しかし、彼は、素朴ではあるが人の心を動かす誠実さでそうした不朽の業績を模倣することで満足した。ブゾーニがドン・ジュアン・テノーリォ[ママ]による・・・ティルソ・デ・モリーナ[ママ]の劇について語ったことは、彼自身の大規模な作品にもまた適用するように適切に次のように解釈されていいかもしれない。即ち、『それらは力強い。音楽は、偉大な新鮮さと暢達さ[ママ]を持っている。それは大きい。そして同時に素朴である。』

世界は、第4楽章に厖大[ぼうだい]なタランテラを持ち、オランダの詩人アダム・エーレンシュレーガーの神秘的な詩のドイツ語訳を吟誦[ぎんしょう]するために目に見えない6声部の男声合唱[原訳:女性合唱]を要求する第5楽章を持つ巨大なピアノ協奏曲を素通り[原訳:す通り]してしまった。この協奏曲に対する霊感は、明らかにゲーテのファウストの第2部を締めくくる『神秘の合唱[原訳:神秘な合唱]』に由来した。他方、ブゾーニの短い作品と、成功に最も近かった初期の『喜劇序曲』(Lustspiel Overture)(1897年作、1904年改訂)や『ロンド・アルレッキネスコ』(Rondo Arlecchinesco)(1915年)のような作品は、今日(こんにち)主として新しい観念の産物としての重要性のために記憶されている。

何故(なぜ)かというと、ブゾーニが大きな影響を及ぼしたのは、観念の分野に属する[原訳:ぞくする]ものだからである。これまで見たように、ブゾーニは、標題音楽とロマン的な無形式の過剰を非難したと同じように、率直[原訳:卒直]に印象派的な曖昧さにも反対した。音楽は感覚的なものを除去し、主観性を拒否すべきであるという彼の主張、形式と表現が完全な均衡をとることができる新古典主義を達成しようとする彼の努力――こうしたものは、音楽家達が大規模な交響曲的な作曲と更に交響曲そのものからさえ転向した1920年代の音楽的な革命のための発生的な力を準備するという教義であった。正(まさ)しく、ブゾーニの影響は、単に第1次大戦の勃発に続く混乱時代でのブレーキとして作用したばかりでなく、また室内管弦楽を復旧するにも役立ち、作曲家達を楽器のアンサンブルのもっと小さな形態のものに帰らせ[原訳:帰らさせ]始めた。この意味では、ブゾーニは、ストラヴィンスキーとヒンデミットの偉大な名前によって代表される新古典主義運動で自分の役目を果たしていた。

ブゾーニの音楽の澄明さ[ママ]と形式の純粋さというラテン的な観念が最高度の表明を見出し、そして最も独創的で革新的な影響を与えたのは恐らくオペラの分野に於いて[原訳:於て]であろう。ブゾーニのオペラの永続的な性質は次の項の主題となるものである。(未完)[ママ]       

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2007年5月31日 (木)

福島県いわき市・いわき芸術文化交流館ALIOS

私の大切なお友達である足立優司さんが、4月に「三鷹市文化芸術センター」の音楽企画員の職を辞され、「いわき芸術文化交流館ALIOS」のプロデューサーに就任されました。私はそもそも、いわき市に関する知識が全くありませんでした。そこで、足立さんが先日、いわき市に関する説明を送ってくださいました。その情報を少し編集して、以下に記します。

いわき市は、4年ほど前までは日本最大の面積、つまり四国の香川県とほぼ同じ面積を持っていました。いわき市は今から40年前に、5市4町5村の合併によって誕生しました。その中心地は「平(たいら、旧平市)」ですが、「平」は江戸時代には磐城藩の平城の城下町であり、現在は市役所や、今回新しく出来るホールがあります。「平」と並ぶ大きな街は「小名浜(旧磐城市)」ですが、ここは江戸時代から漁港として栄え、近年は重化学工業港として東日本で第2位になっています。また、長く本州最大の常磐炭坑のあった「湯本(旧常磐市)」は、日本アカデミー賞を取った映画「フラガール」の舞台です。ここは、「ハワイアンズ」があるところですが、ひなびた温泉街の町並みもあります。東北の入り口として奈良時代から続く「勿来(なこそ、旧勿来市)」は関所として有名ですが、クレハと日本製紙の工場があり、東北電力のプラントもある工業地帯です。そして、常磐自動車道「いわき中央インター」から近い、平と隣接した「内郷(うちごう)」があります。以上の5つの地域がそれぞれの地域性を保ったまま発展してきたのが「いわき市」です。ちなみに、福島県は横長であり、縦に3つの地域に分かれていて、それぞれを山地が隔てています。一番西は「会津」、真ん中は郡山、福島を含む「中通り」、そして太平洋に面する、南のいわきと北の相馬のある「浜通り」です。相馬は馬追いで有名でしょうか?その中でもいわきは、どちらかといえば「常磐」つまり常陸(=茨城県)との繋がりが最も強く、また東北とはいえ雪がほとんど降らない温暖な気候で、福島県の中でも独特の地域性を持っています。              

詳しくは、お勧めサイトの『ハワイアンズで常夏気分!』『いわき芸術文化交流館ALIOS』などをご覧ください。

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2007年4月30日 (月)

日下四郎訳『ルドルフ・ラバン――新しい舞踊が生れるまで』刊行

以前からお知らせしていた日下四郎訳『ルドルフ・ラバン――新しい舞踊が生れるまで』(大修館書店)がついに刊行されました。日下先生の解説が非常に適切であり、この本は、日本で出される初めての本格的なラバン研究書、或いは極めて知的レヴェルの高い読み物と言えましょう。実を言うと、私はラバンの原著をほとんど所有してはいます。しかし、ラバンのドイツ語も英語も極めて変則的なため、書かれた背景や内容がよく分かっていないと訳出どころか正確な内容の把握も出来ません。「高校生レヴェルの直訳」や「アバウトな意訳」をしたために、惨憺たるありさまに陥ってなっている訳を、多々見かけます。従って、私の力量で訳しても、それらの二の舞になるだけなので、全訳はとうの昔に諦めています。そういう意味で、卓越した日本語力とドイツ語力をお持ちの上、舞踊の背景もよく分かっていらっしゃる日下先生は、最初で最後のラバン翻訳者と言えるのではないでしょうか?特にラバンによる合成新語に関しては、リサ・ウルマンの英訳より的確で気のきいた和訳になっていること請け合いです。また、原著には載っていない写真も重要度の高いものは選択して掲載されており、資料としての価値も高い本です。これだけの労作が2310円で買えることは、滅多にないと思います。舞踊の分野では、今年のお勧めの本No.1でしょう。

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2007年3月31日 (土)

柴田耕太郎訳『私もカトリーヌ・ドヌーブ』上演のお知らせ

2007年4月3日(火)から8日(日)まで、ピエール・ノット(Pierre Notte)作、柴田耕太郎訳、平山勝演出の『私もカトリーヌ・ドヌーブ(Moi aussi je suis Catherine Deneuve)』が上演されます。場所はシアターX(カイ)・・・JR総武線「両国」駅西口から徒歩3分、東京都墨田区両国2-10-14、TEL.03-5624-1181。

原作のピエール・ノット氏は、1969年アミアン生まれの作家であり、『私もカトリーヌ・ドヌーブ』は2005年のディアヌ=リシュアン・バリエール財団の演劇賞を受け、ジャン=クロード・コチヤールの演出によってペピニエール劇場で2005年8月に初演され、2006年3月に「2005年度私的劇場でのモリエール賞」を受賞しました。

翻訳者の柴田耕太郎さんは、私のプロフィール欄にも書いたごとく、1984年(23年前!)に私の就職先を世話してくださった恩人です。当時の柴田さんは、いかにもフランス帰りのスマートなインテリという感じの素敵な方でした。私がせっかく紹介して頂いた就職先を1年で勝手に辞めてしまったのに、お怒りにもならず次の就職話を持って来てくださる寛容な方でもありました。結局、昼間にバレエのレッスンを受けたいという理由で退社したため、他の外資系企業への再就職話は立ち消えになりましたが・・・そんな柴田耕太郎さんの略歴を以下に記します。

1949年生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業。岩波書店嘱託を経て渡仏、演劇を学ぶ。その後、新聞配達、塾教師、舞台監督、演出助手、海外情報紹介、声優、テレビ映画吹き替え台本作家などを転々とし、現在、(株)アイディ代表取締役、一線の翻訳家、翻訳教育の専門家、翻訳会社の経営者として、年に出版翻訳100冊、字幕台本300本、産業翻訳50000ページのコーディネイトを行っている。また、翻訳者育成の私塾の経験をもとに、2000年春には、インターネットによる翻訳者選定オーディションTranNetをスタートさせた。主な翻訳作品に「オクラホマ」(宝塚歌劇団上演)、「しゃべくり女」(劇団昴上演)、「ナンバー」(TBS系放映)、『ジャズボーカルの発声』(東亜音楽社)などがある。主な著書に『翻訳家になる方法』(青弓社)、『英文翻訳テクニック』(筑摩書房)、『翻訳家で成功する』(工作社)などがある。

同時にギィ・フォワシィ作、佐藤実枝訳、平山勝演出で『父の言い分』も上演されます。また、「ピエール・ノット来日シンポジウム」も行われます。4月1日17:00からシアターXにて「今日のフランス演劇について」。4月2日19:00から東京日仏学院(飯田橋)にて鵜山仁との対談「ジャーナリストと演劇人」。

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2007年2月28日 (水)

Ein Leben für den Tanz の日本語訳刊行予定

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ラバンの非常に興味深い自伝『Ein Leben für den Tanz』の日本語訳が、2007年3月中旬頃に刊行されます。ゲラ刷りは既に出来上がっています。邦題は『ルドルフ・ラバン-新しい舞踊の生まれるまで-』、訳者は日下四郎(くさかしろう)先生です。日下先生は「歯に衣着せぬ物言いをなさる方(かた)」あるいは「ズバッと本質的なことおっしゃる方」なので、訳本も大いに期待出来そうです。出版社は大修館書店、46版288頁 定価は2310円(本体2200円)。コードは 978-4-469-26628-3です。

日下先生の略歴をご紹介しましょう。京都生まれ。東京大学文学部卒業。TBSプロデューサー。Dance Theater Cubic を設立して演出・台本を専任。日本女子体育大学大学院非常勤講師を経て現在はフリーランス。この経歴を見ただけでも、ブゾーニやラバンと同様、何か一種類の仕事人ではなく、広く芸術に対する造詣がある上に象牙の塔の中の人でもない、マルチ・タレントぶりが伺えます。また、舞踊に関する著作には『現代舞踊がみえてくる』『ダンスの窓から』などがあります。

2007年2月末に、日下四郎先生から3つの英文が送られて来ました。それをもとに、ラバンの自叙伝の日本語訳出版に関する情報をご紹介します。今回出版される『ルドルフ・ラバン――新しい舞踊の生まれるまで』は、1935年にドレスデンのカール・ライスナー社(Carl Reißner Verlag)から出版された『Ein Leben für den Tanz』をもとにしています。オリジナルの題名を忠実に訳せば、『舞踊に捧げた人生(A Life for Dance)』とすべきところなのでしょうが、そうしなかったところに翻訳者の意気込みを感じます。何の意気込みかと言えば、長い間きちんと理解されて来なかったモダンダンスを理解させよう、というものです。

この新刊書は、ラバンに興味がある方はもちろん、日本のモダンダンスの創成期に関心がある方にもお勧めです。翻訳者の判断で、モダンダンスというものを一般に分かり易く説明するため、原著にない補足がなされています。日本のモダンダンス創成期に活躍した2人の大スター(江口さん・宮さん)にも触れられています。余談ですが、私はこの2人のことをよく知らないまま、2人が主宰していた舞踊団のメンバーが写っている集合写真(中國新聞撮影)を保管しています。誰でも写真から江口さんと宮さんを特定出来るほど、2人ともカリスマ性がある舞踊家です。今、ふと世間に出ていらっしゃったとしたても、決して古いという感じはしません。                     

                    

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2007年1月31日 (水)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 2-1

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ論文「フェルッチオ・ブゾーニ:ロマン主義に対する反動」
『音楽芸術』第16巻、1958年5月号より転載
門馬直美訳(なるべく原訳を活かしつつ、山田の判断により適宜〔大括弧〕を用い、仮名遣いなどの明らかな誤植を修正、原訳者の省略を補足、読者に判読が難しそうな漢字の読み仮名・ひらがなに当てはまる漢字を補足)

ブゾーニがイタリア系でありまたドイツ系であるという二元的な点は、彼の名前にさえも現われている。43才の時に書いた自伝風のスケッチで、ブゾーニは、洗礼に当たってどうしてフェルッチォ・ダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート(Ferruccio Dante Michelangelo Benvenuto)と名づけられるようになったかを詳しく説明している。彼の父フェルディナンド・ブゾーニは、すぐれたクラリネット奏者であり、明らかにローレンス・スターンの小説「トリストラム・シャンディ」の中の年老いたシャンディの理論に従ったようで、名前によってその名を持つ人の能力に影響を及ぼすと見たのであった。ブゾーニは、更に続いて加えて、『このことは重い責任であり、三人の偉大なるトスカナの芸術家に対抗し、ただフェルッチォという名前だけを維持することによりその責任が緩和されるのだ』と述べている。

フェルディナンド・ブゾーニは、また、家族の演奏旅行の中で或る時には、ヴァイスというドイツ風の名前を利用するのが便利であることも知っていた。――というのは、母親のアンナ・ヴァイスは、トリエステに住むバヴァリア系の商人の娘で、彼女の息子の証言によると、才能あるピアニストだったからである。何故かというと、フェルッチオが生まれる1か月前の1866年3月に、二人は、フランツ・リストほどの名士を含む聴衆を前にして、ローマの演奏会で演奏したからである。こういうわけでフェルッチォが『4つのトスカナの有名な名前とヴァイス=ブゾーニという結びつきで働く魔術』ということに附随して更に所見を述べるとすれば、『自分の父は息子を十分に好ましく考えていた』ということである。

こうしたことはすべて、ブゾーニの芸術的な性格に於ける二元性を示すことになる。――即ち彼のイタリアとドイツの血統の間の闘争であり、これは、彼の独特な精神状態の情緒的で知性的な反動を実現するのである。彼の訓練、真剣さ、厳密さはすべて、ドイツ的である。こういうものの大部分は、彼の父親が息子の将来の道程に早くから気をつかっていたことによる。というのは、自分についてレオポルト・モーツァルトという複合物の或るものがあると考えていた老フェルディナンドは、躊う[ためらう]ことなく、ウィーンの鑑定家、中でもアントン・ルビンシュタインの前で僅か8才の天才ピアニストとしての天分を披瀝させたほどだからである。フェルディナンド自身は、ブゾーニが後に証明することになるのだが、訓練を[原訳:訓練の]大して受けていない音楽家であったのであり、クラリネットでのレパートリーは、ただオペラの幻想曲を含むだけにすぎなかった(その中で、『イル・トロヴァトーレ』に基づく幻想曲は彼の特に気に入りのものであった)。しかも、その息子は、『バッハの研究を厳格に自分に続けさせた』ことをこの父親によるものだと何時も回想していたが、しかし、その当時では、大家バッハは、カール・チェルニーと同じ程度のものと評されていたのである。しかし、フェルディナンドの見解では、バッハは、彼の息子が創作芸術家としての方針を定めてゆく一つの流れであった。他の流れは、彼自身の立派はトスカナの血統であった。それ故に、詩に対するダンテ、デザインに対するミケランジェロ、精巧な技術に対するチェリーニという3人のルネッサンス時代の著名な名前を息子の誕生に当たって想い起こしたということは、徒ら[いたずら]な酔狂ではなかったのである。

ブゾーニの将来を形成することになるもう一つの初期の影響は、ブゾーニのボヘミアの先生であるウィルヘルム・マイヤーによるものである。青年ブゾーニは、このマイヤーの下[もと]でしばらくの間グラーツで勉強したのである。マイヤーは、バッハについての青年の知識を拡げてやったばかりでなく、またブゾーニにモーツァルトに対する愛情を燃やさせたのでもあった。更に、マイヤーは、ブゾーニにベルリオーズの管弦楽の総譜を紹介した。芸術家は、自分の仕事の基礎として最も広い、最も多様なそして最も重要な結果をもたらす教養上の見解を持っていなければならないというのがこの先生の主義なのであった。

若いブゾーニの音楽的な視界が着実に拡がってゆくにつれて、『総合芸術作品』の創作に向かって仕事をするという理想が彼のあらゆる注意と希望と希求を占めるようになった。それは、ドイツとイタリアの二つの偉大な文化の流れの合流点であり、これによって、調査と分析というブゾーニの気質は、その時代の音楽の意義と状態を再評価し、調体系の新しい発展に乗り出し、そして新しい楽器をもって好んで極めて冒険的な実験をすることに向かったのである。

                         ☆☆☆☆

こうした探求の精神は、ブゾーニをその時代の反ロマン主義運動のチャンピオンにした。標題音楽の形態に対する彼の拒否は、リヒャルト[原訳:リヒアルト]・シュトラウスへの対立で特にわかるように、後期ロマン主義の大袈裟[おおげさ]な情緒主義と誇張した無形式に対する当然の抗議なのであった。音楽の『救済の』役目を普及させる点に於いて[原訳:於て]は、ブゾーニは、フリードリッヒ[原訳:フリートリッヒ]・ニーチェに従っていた。そして、ブゾーニは、警句的な書き方に対する自然の嗜好よりも以上のものをこのニーチェと共有[原訳では共通]していた。ニーチェ自身は、『場を誤った』音楽家であったのであり、アルフレッド・アインシュタインの見る通り、『自分を理解させる本当の方法が音楽であるべき芸術家で、ただ必要によってのみ言語を利用するという芸術家であった』のである。ブゾーニより前の世代で、『俳優』、劇場の人間、劇作家の悪夢から逃れるために音楽を頼ったのがニーチェなのであった。ニーチェは、ヴァーグナーの方向に脅渇[ママ]を浴びせたのだった。

ブゾーニは、これまで見てきたように、音楽が自然の模倣であるという時代おくれ[遅れ]の教義を否定した。そして、ニーチェの主義に強烈に同意して、彼は、音楽が生活の反映であるべきであるというロマン的な概念を嘲笑した。ブゾーニにとっては、音楽は、気分と情緒を表現する、様式のととのった[整った]芸術なのである。ブゾーニにとっては、ヴァーグナー流の美学は、ハンスリックに対すると同じ程度に呪うべきものであった。何故かというと、次の通りだからである。

『官能的な或いは性欲的な音楽は(音の陶酔への一種の固執に存するものであり[原訳:ものあり]、このため神経の鍵盤上で演奏される)、明らかに、音楽芸術の性質そのものによる立場から外れているものである。』
そして、後に見ることであるが、彼のオペラ『アルレッキーノ』(1917年上演)の機智のある風刺的人物で、ブゾーニは、社会の弱点、偽った道徳、戦争、哲学、宗教について痛烈な皮肉を浴びせ、そして中でもオペラの形態のロマン的な使用の非現実性について鋭く風刺することに成功した。因み[ちなみ]に思い出すと、『アルレッキーノ』は、フランツ・シュレーカーのオペラで再現されているように、――その後期ロマン主義のメロドラマ風な捏造物[ねつぞうぶつ]――分離した音響の点でヴァーグナーの和声、豊かな音色と色彩家[ママ]的な騒宴の点ではヴァーグナーの管弦楽法、そして極めて対立的なことなのだが、ブゾーニが『醜業』と呼んだイタリアのヴェリズモ(現実主義)の反映にまだ満ち溢れて[あふれて]いる音楽的な雰囲気に折悪しくも落ち込んでしまっているのである。勿論[もちろん]このことは、幾分かは当時の『アルレッキーノ』に与えられた冷淡な受け取り方を説明することかも知れない。

                         ☆☆☆☆

ストラヴィンスキーとヒンデミットの出現と共に、人々は、『新古典主義』について多くを語るようになった。――しかもその場合に、今世紀初頭に、ブゾーニがすでに超ロマン主義の極端からの音楽の更新に対するスローガンとして、『若き古典主義』(Junge Klassizität)という語を作っていたということを忘れていたのである。その運動は、知性的なものとして説明され、新しい語法を創造する手段として音楽の調的な価値を解釈し直そうという熟考した試図[ママ]として説明されてよいものである。第一次大戦後に現われたエルネスト・クシェネックやクルト・ワイル[ヴァイル]のような人やブゾーニの下で勉強した他の多くの人達やシェーンベルクのような人などの若い進歩的な音楽家達は、改革運動的な精神を認め、ブゾーニを彼等の反ロマン主義的反動の指導者と見做して[みなして]いた。

ブゾーニは、また、ロマン主義に対する改革運動という点でマックス・レーガーも味方に持っていたようであった。二人とも、バッハとモーツァルトに於いて最高の頂点に達した音楽での18世紀の古典主義の清澄さと論理性に復帰することを勧めていた。しかし、レーガーの解答が極めて緩慢で不細工に表現されるのに対して、ブゾーニの[解答]は、明瞭で率直なものであった。それに加えて、ブゾーニの態度は、レーガーの尊大な傲慢や利己主義と完全に対立するものであり、そのラテン的な血統は、ブゾーニにあらゆる音楽に対するチュートン人的な解決を疑わせることとなった。21才(1887年)の時に書いた初期の論説で、ブゾーニは、自分の主張を支えるためにモーツァルトの芸術を支持[原訳:指示]した。――モーツァルトは『ドイツ人として生まれイタリア人として教育を受け、そして、その若い頃には、フランス的なものへの強い傾向を持ちながら大家グルックの影響下に投げ出された。こうして、モーツァルトは、特に創作芸術で一方にかたよるということなく、三つの楽派[つまり、ドイツ・イタリア・フランス楽派]全部のの教義と規則を集約したのであった。』そして、20年後には、自分自身の音楽的な成長を振り返って、ブゾーニは、次のような著しい言葉を書き残した。『これらの20年を全て[原訳:全く]通じて、「フィガロの結婚」は、波立つ海洋の中の燈台のように、自分の評価の中で不変なものとなっている。』(妻への書簡、1907年8月2日)

このことは、確かに、大衆の前に巨匠的なピアニストとして、リストと極めて密接に同一的に見られていた人間ブゾーニ[原訳:ブゾーニをリストと極めて密接に同一的に見られていた人間]から出た飾り気のない告白のようにひびく[響く]。伝記の細部と彼の人間的な生涯の危機に頼ることなくては、そのような矛盾を如何[いか]にして調和させることができるだろうか?ブゾーニの中のファウスト的な要素、彼の中に宿り、決して完全に融合しとげることのない二つの魂は、彼の心と気質の本格的な特徴であった。華やかなピアノの巨匠的な演奏家として、彼は放浪的な生活[原訳:存在]を過ごさなければならなかった。――それは、『演奏旅行という[原訳:演奏旅行の]終生の放浪』と、教師として諸国にいるということで世界をさまようということであった。彼は、自分で呼んでいるようにこの『サーカスの生活』を嫌悪していたが、しかし、それは、彼が自分の妻と子供のために準備できる唯一の手段だったのであり、1909年まで彼は自分の両親を養うという付加的[原訳:附加的]な責任を持っていたのであった。心の奥深くで、彼は、創作芸術家としてもっとずっと高い義務のために呼ばれているのだと感じていた。我々は、ボストンから1911年2月18日に妻に宛てて[原訳:宛て]書いた次の書簡のように、彼の手紙の幾つかのもので、絶望の孤独の記述を見出すことができるのである。

『作曲家としての私の発展は、長い中断と再び極めて骨を折って脈絡をまとめねばならないということがなかったならば、すでに完全に違う状態のものとなっていたでしょう。私には、幾らかよい仕事をするために年にただ4カ月だけしかないのです。そして、それから私は、再び僅か[わずか]の段階を後退せねばならないのです。』

彼の作品はすべて、カルメンのパラフレーズとファンタジア・コントラプンティスティカをも除くことなく、彼の内部的な闘争の絶えない状態を反映している。

                        ☆☆☆☆ 

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文2-2 へ続く

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2006年12月31日 (日)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 1-2

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 1-1 の続き

ブゾーニの態度の中には、時代おくれで古臭いものが多くあるかも知れない。しかし、それにしても、彼の観念の適用と思考の中には、大切にされる価値のあるものが沢山[たくさん]ある。彼の観念主義と精神的な美に対する感覚は、彼の時代にあっては稀[まれ]なものであったのであり、現在のところ、音楽では実際には存在しないものである。作曲家は、ブゾーニが何回となく主張していることによると、自分の仕事から退いて、『浄化された道――困難な道、火と水の試練を追究すべきである。『落ち着きを獲得することを狙う[ねらう]べきである。それは、ベートーヴェンの微笑やツァラトゥストラの『解放の笑い』ではなくて、叡智[えいち]の微笑、神の、絶対音楽の微笑である・・・・・・』(1920年2月7日のパウルベッカーへの書簡)

彼はまた、思想家及び音楽の伝道者として将来を見つめる方向[原訳:を]固執していた。妻に宛てた書簡で、彼は次のように告白している。『人間及び芸術家として、私は、後方よりもむしろ前方を見ることを好みます』と。そして、この同じ書簡で、『人間は翼を持つに違いない』というレオナルド・ダ・ヴィンチの意見を引用して、次のように断言した。『そしてしかも私は、将来の偉大な新しい音の芸術では、機械が本質的な役割を演ずるのに頼るということをすでに信じたいのです。そして、工業は、恐らく芸術上の進歩に関係するようになるでしょう。』

ブゾーニは、近代音楽の運動を擁護[ようご]し、新しい作曲家の中でも国際的名声を将来に賭けたバルトークの作品の重要性を認めた第一人者の一人だった。この点で、ブゾーニが新しい音楽のために闘った[たたかった]頃の第一次大戦の始まるすぐ前に、ベルリンで主宰した一連の演奏会は注目すべきものであった。

しかし『近代人』の行路は、ブゾーニの道ではなかった。ブゾーニは、たえず音楽が感覚的なものを除去すべきであり、『主観性』を放棄すべきであるということを強く主張したとしても、――そして、彼は常に新しい端緒を作り、前方を見つめていたにしても、――彼自身は、偶像破壊者でも革命家でもなかった。ブゾーニは、『以前の実験のあらゆる累積と強く美しい形でそれらが包含するものを重んずることに転向すること、これを征服すること、取捨[原訳:取拾]すること』を記して、『若い古典主義』をいう語を用いた。(前掲パウル・ベッカーへの書簡)。

ブゾーニの見解では、音楽は、作曲家が常にとらえようと努力し、世界に注目させようと高くさし上げねばならぬ『もの』[ママ]なのである。ブゾーニは、次のように警告した。『誰も天才を羨ましがらせるな。というのは、天才にこそ仕事の最も困難で責任ある部分がかかっているのであり、しかもその場合に、天才から常に教えられる音楽の本質と我々とを遊離させるという可能性も置かないのである。この音楽の本質と我々との間のへだだりが次第に減少させられるのは、新しい手段を発明することや個性的な賢明さによるのではなくて[原訳:よるのでなくて]、あらゆるこれまでの成果を集約し、しかも獲得しようとする絶えざる努力によるのである。』

作曲家[ブゾーニ]はグスタフ・マーラーと、幾らか同じ見解を持っていた[原訳:グスタフ・マーラーは、作曲家の意図の幾らか同じ見解を持っていた]。しかし、ブゾーニが崇拝する神はバッハとモーツァルトだった。[ブゾーニは]リストを偉大な予言者としていた。彼[ブゾーニ]の哲学では、時代は無関係であった。何故かというと、バッハとモーツァルトは、過去と同じ程度に現在にも未来にも属する[原訳:ぞくする]からである。

ブゾーニは、『音楽の一元性[原訳:単一性]』を宣言した。――これは、音楽がもはや目的(例えば劇場や教会のため)や音の方法(声楽、ピアノ、管弦楽或いはこれらの統合)に従って分類されるべきものではないということを意味した。彼自身の作品では、そしてその同時代の人達の大部分と対抗して、ブゾーニは、『解体』(Auflösung)と呼ぶ[原訳:呼んだ]ものを求めた。これは、音符や楽句を知らずに音符の背後にある精神状態を知るという心の状態或いは寛ぐ[くつろぐ]過程を指したものである。こうして、彼は、バッハや他の大家達を自分で改版するのに少しも遠慮しなかった。そして、彼は、自分自身の思想と実際を反映するために、アナトール・フランスの次のような言葉を用いたのだった。『音楽の曲の内容は、これが音になる前及びなった後にも完成されていて変更することのできないように存在していたのであり、また存在しているのである。』それ故に、ブゾーニの最終的な見地は、一種の音楽的な絶対性であった。彼が主張するところによると、個々の作曲家達は、自身の能力に応じて我々に伝達することができる小さな部分[原訳:その小さな部分]に接近してきたのである。ブゾーニは、次のように書いた。

『作曲家は、大地の大きな地域の小さな部分が耕作のために分配された庭師のようなものである。彼の仕事(または務め)[原訳:機能(Verrichtung を訳出したと推測)]は、自分の土地の上に成長したものを集め、整理し、花束[原訳:その花束]を作ることである。そして、もし彼が極めて大きな望み[原訳:望]を持っているならば、それを庭師として発展させることである。彼の目と腕の届く[原訳:とどく]範囲内――彼の配分[原訳:区別(Einteilung を訳出したと推測)]の能力内―― にあるものを集めて形成することがこの庭師にゆだねられているのである。同じようにして、能力のある人、救世的な人、バッハやモーツァルトのような人は、地球の全植物の一部をただ検査し、巧みに扱いそして啓示することができるにすぎない。――つまり、我々の全地球を被って[おおって]いる花の王国の僅かな部分なのである。そして、巨大な表面は或るところは遠く、或るところは未発見であり、たとえ彼が[ママ]巨人であっても、個性の限界から去ったものなのである。(Melos 1924)。

この種の思考の成果は、音楽の絶対的な概念である。――音楽としての音楽の純粋に理想主義的な証明である。――ブゾーニは、そうした概念の下に[もとに]、楽曲がもし良いものであれば、如何なる[いかなる]環境や境遇でも同じように鑑賞され、如何なる楽器の組み合わせにも編曲されるのだと論ずることができたのだった。バッハ自身[原訳:バッハ自分自身]の音楽を一つの媒体(楽器編成)から他の媒体のためのものに書き直さなかっただろうか?そして、それによって音楽の本質は変わらなかっただろうか?しかし、逆に、もし音楽が本質的に悪いものであったら、何もそれ恐らく救うことができないだろう。そうでなければ、その性格を変装[ママ]させてしまうのである。

                         ☆☆☆☆

ブゾーニは彼が[原訳:彼の]生存した[原訳:生存の]時代にかなり[原訳:可成りの程度まで]孤独な人物であった。何故かというと、彼が提出した美学は、実際のところ、すたれてしまった古いドイツ観念論的な哲学の遺物だったからである。ブゾーニが[原訳:ブゾーニの]生存した[原訳:生存の]時代は、長い支配の後に起きた[原訳:後の]あの誇らしげな哲学体系の失墜と一致していた。音楽の部門では、ブゾーニが[原訳:ブゾーニは]、その後の偉大なる代弁者だった。

勿論[もちろん]、ブゾーニを同時代の[原訳:その同時代の]人達と離してしまったまた別の個人的、心理的な理由もあった。そして、この理由が彼の挫折を説明するのである。彼の伝記作者達は、ピアニストとしての彼の大きく成功した生涯、スウェーデン生まれの妻ゲルダ・ショーストランド[原訳:ジェルダ・スエストランド]と二人とも有名な画家になった二人の息子と彼の家庭生活をおおっていた外面的な平和について伝えている。しかし、こういうことは、全体の姿ではない。というのは、ブゾーニがまた激情的で落ち着かない気質の人間、つまりファウスト的人間でもあったからである。職業柄、多くの国に旅行[原訳:多くの国に職業柄旅行]していた間に妻に宛てた感情をこめた[込めた]書簡から、こうした苦悩のひらめきが認められるのである。

彼は、しっかりとした根源のない人だった。――生国イタリアと本籍のあるドイツの間に分かれていた。こうした二つの背景は、決して分解するに至らなかった。実際、イタリアとドイツは、彼の心と仕事の中で優越性をとるために絶えず闘っていた実体だったのである。彼の母は父方から[原訳:その父の側から]パヴァリアの血をうけていて[受けていて]、ブゾーニは、知性的にゲルマンの真面目さをもって発展していった。ドイツ語は、彼が主として自分の概念を伝達する言語だった。しかも彼は、イタリアに[原訳:イタリアを]憧れ、彼の作品[原訳:その作品]では単に自分が本質的にはイタリアに祖先を持つものであるということを主張するためばかりでなく、嫌悪した[原訳:完悪した]「ヴェリズモ」(現前に[原訳:現全に]憎実[ママ]主義)の侵入からイタリア音楽を救うためにも、仕事をしたのだった。彼は、入念に作品に向かい[原訳:向い]、心の中でイタリアの音楽の遠大な刷新を計画した。彼のスコアは、ブライトコプフ・ウント・ヘルテルという[原訳:の]ドイツの商社から印刷され出版されているが十分に彼の誇らしげなトスカナの伝統を主張して、『フェルッチォ・ブゾーニ・ダ・エンポーリ』(Feruuccio Busoni da Empoli)という署名をもって現われていた。最後に、ヴィットリオ・グイによると、彼が臨終で感謝したのはイタリアだったそうである。『彼の最後の数時間に彼の郷愁は大変強くなり、そのために、彼のピアノの弟子のエゴン・ペトリにポピュラーなナポリとヴェネツィアの調べに基いたリストの狂詩曲を演奏するように頼んだほどだった。ブゾーニは、それをきいて[聴いて]激しく泣いた。』(グイ、Battute d'Aspetto Florence 1950)

次の二つの項では、作品[原訳:彼の作品]でのブゾーニの美学の区分[Klassifikation の訳出と推測]と特にオペラの作品へのそうしたものの適用を調べようとする予定である。

                  

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2006年11月30日 (木)

My Favorite Artists 1


2006年11月25日(土曜日)に、青森県の三沢市と十和田市の中間に位置するメイプルホール(六戸町文化ホール)にて、柊(ヒイラギ)ダンス&バレエ3周年記念第1回発表会(入場無料)が行なわれました。この柊ダンス&バレエを主宰しているのは、私が舞踊家として最も尊敬し、かつ最も大切なお友達である上野智子(うわの・ともこ)さんです。私の舞踊美学的観点からすれば、この上野智子さんが現在の日本で最も素晴らしい舞踊家でしょう。なぜなら、彼女はバレエも日本舞踊も出来るからです。しかし現在の日本では、上野さんのような真のダンサーではなく、日常の政治的立ち回りの上手い人が東京に残ります。そして、半分色仕掛けで(!)スポンサーを見つけては、愚にもつかない公演を打ちます。私は、付き合いでそういう公演を何度も見に行ったことがありますが「何だ、これ10年にニューヨークでやっていたものの真似じゃないか」とか「20年前のパリでやっていたものの真似じゃないか」と思うことがしばしばありました。ひどいものになると、あからさまにイサドラ・ダンカンの真似をしたり、モード・アランの真似をしたりしたものもありました。しかし、公演を打ってしまえばそれが業績となり、「自分は舞踊家である」と名乗るわけです。私自身はバレエを習っていたものの、身体機能を向上させるためなので、「お金をもらえない舞台はごめんこうむりたい」という姿勢を貫きました。従って、大学の卒業公演以外に、公演というものには出たことがありません。その代わり、ディスコのダンサー、歌手のバック・ダンサー、映画のダンス・シーンのスタント、ファッションショーのモデルなどをやりました。話を柊ダンス&バレエの公演に戻すと、演目は「ハンガリーの花祭り」、「夏のかけら」、「Mysteriouse ミステリアス」、「When she loved me」~トイ・ストーリーより、「涙のあとに」、「泡より誕生(い)ずる」、「失われし刻(とき)」、「サンタの国からの贈り物」他でした。今後の公演のお問い合わせは柊事務局TEL/FAX 0176-52-6278・090-4888-8835です。


2006年11月7日実家の近所にある駅の構内で、私が一番好きな俳優(と一言で申し上げるには多芸多才過ぎるものの、俳優としても最高のため、俳優とお呼びする)橋爪淳(じゅん)さんをお見かけして、ビックリしました。ちょうど英会話の家庭教師のアルバイトをし終わって、実家に帰る途中の出来事です。生徒に「日本語禁止令」を出し、自分も2時間英語で話した直後だったため、とっさに適切な日本語が出て来ませんでした。しかし、ダッシュして追いかけ、お引き止めてしまいました。本来なら「お急ぎのところ、すみません。橋爪淳さんではありませんか?」とでも言うべきなのに「あの~すみません。あなたは俳優さんですか?(=Excuse me, but are you an actor ?)」などと、(俳優だと分かりきっていながら、舞い上がっているため)クレイジーなことを拙ない日本語でもごもごと言ってしまい、冷や汗をかきました。しかし、「そうですよ。」と橋爪淳さんはにっこりしてくださいました。それで、「サインして頂いてもよろしいでしょうか?」と厚かましくお伺いしたところ、「ええ、いいですよ。」というあり難いお返事が返って来ました。また、私が自分のことを何も申し上げていないのに「英語の先生なんですね。」と見抜かれた慧眼(けいがん)には、さらに驚きました。こういう大事な時に限って、サインをして頂くための「色紙」どころかまともな「紙」さえ1枚も持っておらず、やむなく英会話の生徒のよれよれになったプリントの裏にサインして頂きました。私は淳さんが、その日のうちに新幹線で東京へお帰りになると思い込んでいましたが、帰宅後に検索したところ、実家の近所にあるホールの舞台にしばらく出演なさることが判明しました。しかし、残念ながら公演の行なわれている時間帯には、私の仕事がびっしり入っていて、舞台を観に行けません。サインして頂いたよれよれの紙から奇麗な紙に2枚コピーし、1枚は額に入れて部屋に飾り、もう1枚は永久保存のためにファイルしました。ともかく、テレビ・モニターやスクリーンで拝見するより一層、爽やかさ・洗練・品性・見識にあふれ、ノーブルで素敵な方でした。あらかじめお会い出来ると分かっていれば、心の準備をし、Je suis votre admiratrice! (=私はあなたのファンです!)くらいのフランス語を発話していいところを見せられたのに、何たる不覚!しかもノーメイクの上、その日の私の服装ときたら、10年以上前にパリの無名店で買ったフード付きの黒い防寒着、同じ店で買ってぼろぼろになった黒いジーンズ、これまた同じ店で買ったイタリア製の安い靴でした。そして、黒い男物の蝙蝠傘(こうもりがさ)、香港で(売り手は CHARLES JOURDAN シャルル・ジョルダンのバッグと称していましたが、値段の安さからして怪しいと思いつつ)買った大きな黒いバッグと、私が常用している化粧品 N-in の取扱店FONTAINE フォンテーヌさんから無料で頂く大きな紙袋に荷物をどっさり詰め込んで両肩に引っ掛けて持っているという、山谷か上野公園のホームレスの一歩手前っぽい、極めて悲惨な姿を印象付けてしまいました。それにしても、橋爪淳さんのような正統派の二枚目に対して、主役ではなく、途中で殺されてしまう役をあてがう日本の映画監督たちの美意識は、非常に不可解です。沖田総司浅野内匠頭(たくみのかみ)は、この人しか考えなれないくらいのはまり役だと感じたので、止むを得ませんが、『亡国のイージス AEGIS 』を観た時には、納得出来ませんでした。原作では艦長がかなり重要な役割をするのに、映画で早々と艦長を殺されても困ります。もし、私に権限があったら、少なくとも『源氏物語』や『浅見光彦シリーズ』のタイトルロール、亡き市川雷蔵の演じたシリーズの主役などをやって頂くのですが・・・現実問題として2006年12月25日のクリスマスには早く家に帰り、21:00~23:00の間、TBS系列の局で放映される月曜ゴールデン山村美沙没後10年特別企画・サスペンスドラマ『京舞妓VS狩谷警部――乱れ傘の舞殺人事件』を見ようと思います。橋爪淳さんは、画家・笠木雅巳(かさぎまさみ)役で出演されるそうです。


2006年11月1日先月から世間を騒がせている複数の進学校のニュースを見て、「世界史」を履修しない高校生が多数存在することを知り、複雑な気分です。「世界史」を学ばずして日本のエリート進学校を卒業したことになっている人が大勢いるとは、何とも奇妙な感じがします。こういう連中に日本の将来を任せなければならないのは非常に不安です。受験間近のこの時期に受験科目でない「世界史」をやらせるのは残酷だという意見が出て来て、本来なら70時間行なうはずの補習を50時間で済ませるとのことです。これには、ますます驚かされました。正直に「世界史」を勉強した高校生の方々は、将来、必ず「真面目にやって良かった」と思う時が来ます。今後一生、交渉ごとを円滑に進めるために必要な「外国人との世間話のネタ」になります。いくら理系でも、今や外国人との折衝は必須です。もし、外国人と世間話をするネタが必要ないと言うなら、今の日本の「英会話熱」は意味がなくなります。
日本の教育の二極分化と言うか何と言うか・・・この問題と次元が違い過ぎる現実を一つ例示します。繁華街で地べたに座り込んで煙草を吸っている付けまつげの女子高生たちを見て「パクられないようにね!」と忠告すると、必ず「はーい」と素直な返事が返って来ます。日本は不思議な国、まさに不可思議な国です。・・・「おまえの忠告の仕方がかなり変だ」とか、「おまえの容姿が威圧的で若い女の子には怖いんだろう」とかいうご意見があるようなので、このあたりで発言を控えます。

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2006年10月31日 (火)

マルセル・グリリ Marcel Grilli 論文 in 『音楽芸術』 1-1

Busoni01_4

Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

マルセル・グリリ論文「フェルッチオ・ブゾーニ:一つの再評価」
『音楽芸術』第16巻、1958年4月号より転載
門馬直美訳(なるべく原訳を活かしつつ、山田の判断により適宜〔大括弧〕を用い、仮名遣いなどの明らかな誤植を修正、原訳者の省略を補足、読者に判読が難しそうな漢字の読み仮名・ひらがなに当てはまる漢字を補足)

フェルッチォ・ブゾーニが世を去ってから、34年[注:1958年当時]が過ぎた。――彼は、1866年4月1日にイタリアのフロレンスの近くの小さな町エンポーリで生まれ、1924年7月27日にベルリンで死んだ。――そして、ブゾーニの音楽家としての、及び音楽に対する思想家としての個性と地位の再評価を行なってみたいというところである。[私、つまりマルセル・グリリが]彼の50年間の生涯を通じての巨匠演奏家、作曲家、思想家という三重の姿を主張するため長い間闘争しているうちに[原訳:間に]、世間一般[原訳:世界一般]は彼のもとを通り抜けてしまったということについては疑いの余地がない。今日では、世界での偉大なピアニストの一人であったということ以外には、ブゾーニについては多くのことを聞かない[原訳:きかれない]。そして、このような追想は、大体のところ、年とった世代の人達の間でなされるのに限られている。ブゾーニの作品もまた、一つ或いは二つの例外はあるにしても、やはりかたわらに忘れ去られている。勿論[もちろん]、世界[中]いたるところのピアノの学生がバッハのブゾーニ版を知っていることは確かなのだが、ブゾーニの創作曲の数多いものの中の僅かしか現在ではき[聴]かれていない。如何[いか]なる演奏会も、ブゾーニのピアノと管弦楽と男声[原訳:女声]合唱のための扱いにくい協奏曲(1903~1904)の演奏を予定に組もうとはしないし、現在のほとんどどのピアニストも、『ファンタジア・コントラプンティスティカ[ママ]』(1910~1912)と敢えてとり組もうともしないだろう。恐らく唯一の注意をひくものとして、彼の第二ヴァイオリン・ソナタ(作品36a)が時たま現在の或るヴァイオリニストのリサイタルのプログラムで見られるくらいのものであろう。このソナタは、1898年に書かれたもので、ブゾーニの『作曲家としての存在』の最初のものとブゾーニに考えられていた。

ブゾーニと4つのオペラは、一時は中部ヨーロッパ諸国で或る程度の流行をみたのだが、その中の一つは長い間舞台にかけられることがなくなってしまった。そして、これらの中で、ただ一つ『アルレッキーノ』(Arlecchino)(1914~1916)は、今では、次第に国際的なレパートリーに入り戻って来た。これは、主として、ヴィットリオ・グイとディミトリ・ミトロプーロスのような、作曲者の現存する友人で弟子という[原訳:の]一部の人たち特別な努力によるためである。

生涯を通じて音楽に於ける『未来主義』のために戦った音楽家の思想と観念が今でも論議されているように思える、或いは少なくとも、今や『未来』が到達したこの現在に広く行なわれている観念に反しているように思えるということは、奇妙なことである。勿論[もちろん]、こうしたことはすべて、ブゾーニのシェーンベルクやストラヴィンスキーに対する軽度な評価からわかるように、流行の変化、先達者[原訳:先輩]に対する反動という各世代の傾向、そして未来を正確に予想する予言者の無能力という理由の上に立って論じられうることなのである。そして一方、シェーンベルクやストラヴィンスキーは、自分達の芸術について何と考えられようとも、現代の音楽で根源的な力となったことを実地に示しているのである。

                        ☆☆☆☆ 

その上、ブゾーニの個性は、国際的な文化の中に深く入り込んでいた。そして、彼と同じ時代の人達の間で、ブゾーニは、単にその時代の最も偉大な音楽的な知性の持ち主と見なされていたばかりでなく、また20世紀の音楽の危機を解決できそうな人とも考えられていた。ここで、ブゾーニのすぐれた知性或いは彼の思想の高尚さと高雅さを問題とはしていないのであって、彼の近代の弟子の或る人達の主張に対して異議をとなえているのである。そうした弟子の中でグイは、ブゾーニをその時代に先んじた人、先駆者と見なしてさえいるのである。ブゾーニの失敗に対する鍵は、その他のところにもある。

思想の知的な複雑さと散漫さが作曲家としての[原訳:として]ブゾーニの作品を泥沼に沈めてしまっている。ブゾーニは、多くの妥協できない部分からできた個性の持ち主であった。――つまり、傑出した巨匠演奏家、議論を起こしやすい作曲家、そして確かに偉大なしかもしばしば卓越した思想を、しかし『空中に投げられるや否や消えてしまう』思想を持つ学者であったのである。[注:山田の私見によれば、そういう人は「学者」とは呼ばない方が良いと思うが、ここで持論を展開するわけにも行かないので続ける]ブゾーニの知性の特徴は、語句の多い仰山な[ぎょうさんな] 『茶話[さわ]』の空想に対する好みに走ったことである。『音楽芸術の新しい美学草案』(1906)(Entwurf einer neuen Aesthetik der Tonkunst)と『音楽の統一性について』(1923)(Von der Einheit der Musik)の二つの論集で代表されるような彼の出版された著作や多くの情熱の溢れた[あふれた]書簡を骨折って読んだ人は、ブゾーニが音楽芸術について熱心にそして深く考えていたということと、たとえ時代の流れに反対する方向にであっても、ブゾーニの心から新鮮な数多くの光明と智力[ママ]の鋭いひらめきがほとばしり出ているということには同意せねばならないだろう。

ブゾーニは当時のリアリスティックな或いは『具象的な』傾向の音楽に対し高尚な貴族的な軽蔑を表明していた。かれはリヒャルト[原訳:リヒアルト]・シュトラウスと比較された。シュトラウスの理想は、実際の音楽の出来事、『触れたり見たりすることのできるもの』を表現することにあった(誇張した言葉ではあるが、シュトラウスは、かつて誰もがすぐに意図を認めるほどにリアリスティックに音楽で茶匙[さじ]を描くことができるような時代を自分は期待していると弟子に語ったことがあった。――或いは、ブゾーニは、ストラヴィンスキーとも対立させられた。このストラヴィンスキーは、『自分は、人々が到着したり出発したりする間に音楽が演奏されるようなことが起きればいい』と宣言した。ブゾーニは、音楽が日常生活と離れているべきものであるということを繰り返し述べて飽くことを知らなかった。

『音楽はあらゆる芸術の中で最も超然とした神秘的なものである。荘厳と神聖の雰囲気が音楽をとりまくべきである。音楽の演奏に立ち入ることは、フリーメイソン[原訳:フリーメーソン]の儀式の典礼と神秘と似かよっているべきである。・・・・・・街路、線路、汽車或いはレストランにいる人が第9交響曲の第2楽章の間に騒音を発しているということは、芸術的には不穏当である。・・・・・・演奏会にゆくことは、何か普通でないことの望みを持たせるのであり、最も深奥な[原訳:一番奥底の]生活に世俗的な生活から次第に我々を導く筈[はず]である。段々と、聴衆は、尋常ならざるもの[原訳:異常なもの]に支配される。・・・・・・何よりもまずこうしたことに到達するには、数多の音楽の演奏が削り落とされねばならない。そうすると、演奏のどれもが価値を持つようになり、選択され、更に注意深く準備され、別々に各々[おのおの]期待され、そしてそれぞれ享受される筈[はず]である。(アメリカ旅行に関する記事。雑誌 Sigale für die Musikalische Welt : Berlin の1910年12月23日)。

またずっと後に、ブゾーニは死ぬ1ヶ月前に次のように書いた。

『音楽の本質は、少数の別個の人間によって予知される。大部分にとっては、音楽は、未知のもの或いは誤解されているものなのである。それは、あたかも我々がみな少しばかりの煉瓦[れんが]からあらゆる時代とあらゆる国の建築の様子を知ろうとするようなものである(Melos 1924)。

                     ☆☆☆☆

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2006年9月30日 (土)

英語教育について


2006年9月18日号
(実質的にはもっと早く販売)の英語週刊誌『タイムTIME』の表紙には、黒地に赤い日の丸を背景にした安倍晋三氏が載っています。今までの日本の政治家としては橋本龍太郎(はしもと・りゅうたろう)氏とどちらが最も整ったお顔かと世間では思われていそうな彼が「ブ男」に写されており、そのタイトルは「WHO IS SHINZO ABE?安部晋三ってどんな人?」となっています。本文には、さらにブ男で陰険そうに写された彼の写真と「THE ABE ENIGMA 安倍の謎[もっと悪く捉えると《あの安倍の奴めの謎》という恐ろしく悪意に満ちたタイトルになります・・・考えすぎかな・・・]」というタイトルが付けられています。この時点において、タイム誌では既に安倍氏を次期総理総裁として扱っています。荒っぽく言えば、安倍氏のみが北朝鮮の拉致問題を解決出来る唯一の人物であるけれども、そのために日本が戦争に突入するかも知れない、というような驚くべきことが某評論家の見解として書かれています。そして、おじいさんの岸信介氏、大おじさん Granduncle の佐藤栄作氏、おとうさんの安倍晋太郎氏が左側に写真入りで解説され、一番右には1993年の衆議院議員選挙に初当選した時の安倍晋三氏が「かわいく」写っています。表紙に書かれた以下の言葉が、16ページから20ページまで掲載されている本文を上手くまとめているので、適当に訳をつけておきます。

To supporters, the man poised to become Jpanan's Prime Minister is a forceful leader for a revived nation.
支持者たちにとって、日本の総理大臣になる準備の出来た男は、復興する国家の力強い指導者。
To critics, he's a dangerous nationalist.
評論家たちにとって、彼は危険な国粋主義者。

同じ雑誌の21ページに掲載されている記事のタイトルは「The Princess Wars  ザ・プリンセス・ウォーズ」。当然のことながら、プリンセス・マサコプリンセス・キコに関することですが、これに対するコメントは涙をのんで差し控えます。


2006年8月15日
に、小・中学校の同窓生 A Lucky くんから貴重な情報を頂き、新たに井上成美(いのうえ・しげよし)提督という超大物男性の存在を知りました。特に英語教育に関しては、彼のことを書かないで済ませるわけには行かないと思っています。さらに、私見によれば、我が憧れのスーパーマンには劣るけれども、マスコミでもてはやされ過ぎた白洲次郎よりは「いい男」なので、「男の美学」という項目もかなり大幅に書き直さなければなりません。以下は、A Lucky くんから頂いた情報を、ほぼそのまま転載しました。

井上成美(いのうえ・しげよし)1889年(明治21年)~1975年(昭和50年)日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。抑止力としての軍備を考えたのは彼が始めてのようです。井上提督は、日本でよりもアメリカで評価されています。「英語は符牒であって、外国人との意思の疎通を図らんとすれば、当然習得すべき技術なり。」という名言を残しています。海軍兵学校で、(陸軍士官学校に倣って)英語教育の廃止が検討された時、当時の兵学校校長であった井上提督が、廃止案を一蹴しました。「どこの海軍に外国語の一つも話せない海軍士官がいるか!」と。

シュトゥッケンシュミット  H.H.Stuckenschmidt に拠れば、ブゾーニは5か国語を操ることが出来、手紙の中ではイタリア語、ドイツ語、フランス語を同様に正しく使うことが出来たそうです。ただし、彼は単なる語学の達人であったわけではありません。彼にとっては外国語であるドイツ語で歌詞やエッセイを書けるほど、文学にも通じています。

ブゾーニのオペラに関しては、カナダ人著書の転写で有名になられた東京大学助教授某氏が博士論文をお書きになる以前に、マルセル・グリリ Marcel Grilli 1958年『音楽芸術』誌に3つの論文を書いています。「フェルッチォ・ブゾーニ:一つの再評価」4月号、「フェルッチォ・ブゾーニ:ロマン主義に対する反動」5月号、「フェルッチォ・ブゾーニ:一つの再評価:オペラに於ける集約」7月号、すべて門馬直美さんの訳です。これらは「Hayes さん」という学究的な方(日本人)が上手くまとめてくださったので、ぜひご一読ください。このブログの右側についているトラックバック「拍手は指揮者が手を下ろしてから」をクリックすると Hayes さんに何らかの形でコンタクトを取ることが出来ます。

雑事に追われてワールド・カップ World Cup を観る暇が全くなかったものの、一つ気になっていることがあります。日本のサッカー選手たちは、自分の身体のメンテナンス maintenance のためにロルフィング Rolfing を施術してもらっているだろうか?ということです。外国の強いチーム、例えばブラジルの選手たちは、何年も前からロルフィングの施術を受けているそうです。精神論を唱える前に、科学的な方法で選手たちのパフォーマンス能力を最高度に発揮出来る方向に進んで欲しいものです。日本人のサッカー選手に限って好き嫌いを述べるとすれば、私は中田英寿選手よりもゴンちゃん中山雅史選手)の方が好きです。私は中山選手と世代が近いせいもあって、彼のリップ・サーヴィス lip service を面白く感じますが、中田選手を見ると宇宙人でも見るような違和感を覚えます。サッカー選手でありながら、20代でお菓子メーカーの社外取締役を片手間にやるような人には、あまり好感が持てません。また、1989年に日本に気化したブラジル出身のラモス瑠伊(本名:ルイ・ゴンサルヴィス・ラモス・ソブリーニョ Ruy Goncalves Ramos Sobrinho)は大好きです。彼は、背が高くてスレンダーであることはもちろん、日本人以上に日本的な感性を持ち、非常に旺盛なサーヴィス精神を兼ね備えていると思います。ジーコ Zico(本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ Arthur Antunes Coimbra)は苦味走った顔をしているだけで、何も気の利いたことを言わなかったので、私にとっては観ていて面白くも何ともない監督でした。当然のことながら、語録 The discourses が出るほどの言葉の達人である、新しい監督イビチャ・オシム Ivica OSIM は大好きです。


2006年8月1日には、ボビー・コードウェル Bobby Caldwell のCDを入手しました。元々LPは持っているものの擦り切れてしまったため、先日全く同じ曲の入ったCDが発売されたことを確認して注文しました。お目当ての曲は《SPECIAL TO ME 》と《WHAT YOU WON'T DO FOR LOVE 邦題〈風のシルエット〉》の2曲だけです。 ちなみにボビー・コードウェルは1951年8月15日ニューヨークのマンハッタン生まれ、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック Adult Oriented Rock)の二大スーパースターと言われています。ちなみに、もう一人のスーパースターはボズ・スキャッグス Boz Scaggs です。大学2年か3年の時に、六本木のスクウェアビルに入っているディスコでどちらかが生演奏したのを偶然聴くチャンスがあったにもかかわらず、仕事のついでに聴いたため、どちらの演奏を聴いたのかを失念してしまいました。私の記憶力の悪さもさることながら、「六本木で遊ぶ最先端の遊び人たちが自らの趣味を満足させるために集まって聴く」という印象が強く残っています。昔の六本木の遊び人の方が今のヒルズ族よりもシャープ sharp でかっこ良かった、と思うのは身内贔屓(みうちびいき)でしょうか?そもそも「シャープ」という褒め言葉は「死語」になっているかも知れません。ともかく、通好みの、雰囲気あるカッコいいアーティストであるボビー・コードウェルの歌詞やメロディが格別私の心に食い込んだらしく、こうして今でも聴き続けている次第です。自分が本当に好きなアーティストのCDを買うために手放してしまったCDは次の通りです。ウラジミール・アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (1937~ )によるショパンものの全集、つまり《夜想曲全集》《ポロネーズ全集》《マズルカ全集》《ワルツ集》《12の練習曲》など、マルタ・アルゲリッチ Martha Argerich(1941~ )による様々な作曲家の協奏曲、内田光子(1948~ )によるモーツァルト作品、ベートーヴェン作品やシューベルト作品など。クラシカルで良質なピアノ音楽を楽しみたい方には、一応、お勧めです。手放したとは言うものの、一度は気に入って購入したCDですから、一度も購入していないCDとは違って何となくご紹介したい気分になりました。

眠らないまま8月2日を迎え、ステレオに入れていたCDを取り替えました。就寝前には、ミッシェル・ポルナレフ Michel Polnareff の少なくとも《le bal des laze 邦題〈ラース家の舞踏会〉》《qui a tuè grand' maman 邦題〈愛のコレクション〉》《tous les bateaux...tous les oiseaux 邦題〈渚の思い出〉》《ça n'arrive qu' aux autres 邦題〈哀しみの終わるとき〉》《nos mots d'amour 邦題〈愛の物語〉》《lettre à france 邦題〈哀しみのエトランゼ〉》を聴かないと眠れません。いちいち「邦題」と断っているのは、私が訳したのではないことを示すためです。原語とかなりかけ離れた言葉が使われているため、ブログに訳を載せることを躊躇(ちゅうちょ)していましたが、ただフランス語を並べておくのも不親切だと思い、敢えて列記しました。ポルナレフの、品性に疑いのある写真を見た直後、3か月くらい彼の音楽を聴くのをやめていたものの、私が生まれて初めて好きになったアーティストゆえ全てを受け入れ、最近では毎晩聴いています。


2006年7月29日の14:00から17:00まで某芸術センターにて、日本音楽学会T支部例会、17:30から19:30まで発表者の方々を囲む懇親会、20:00から22:00までY町某所にてヒップ・ホップ hip-hop を含む若者のダンス集会(ミサ mass)、翌7月30日15:00から18:00まで某芸術センター地下のO広場にてゴスペル Gospel のライブが開催されました。最初に行なわれた日本音楽学会の例会では、①「現代ジャズの Improvised Line に関する一考察」と③「キューバ的時間の遊び方:時間の『区切り』、リズムの『区切り』」が印象に残りました。①では、懐かしい調性外のアドリヴの譜面を約20年ぶりに見て、自分がジャズに挫折した理由を思い出しました。私が、余りにも調性を離れた音にはついて行けなかったからです。③では、「キューバ人気質」と「キューバの踊り」を教えてもらえるという、ご機嫌な発表でした。これらが楽しかったためはずみが付いて、私としては珍しくどの「会」にも時間ぎりぎりまで参加し、2006年の7月は非常に充実した音楽月間になりました。特に最後のゴスペル・ライヴでは、ビッグ・ママ・ユカ BIG MAMA YUKA こと亀渕友香(かめぶち・ゆか)さんがゲスト出演され、地元のクワイーヤー choire である Voices of Vison の演奏が素晴らしく、とても高揚した気分になりました。自分が歌に感動しているのか、久々に「ハレルヤ Hallelujah!」「ジョイ Joy!」と叫んでいる自分に酔っているのか分かりません。最近になって、自分が日本のサンクチュアリー sanctuary (=聖地)とも言える山の麓(ふもと)に生まれたことを知りました。しかし、自分の生まれた場所と全く関係なく、幼少期からブラック・ミュージック black music によって盛り上がるのが常です。そんな自分をちょっと変わっているかな?とも思いますが、レバノン Lebanon 情勢を気にしつつも自らは平和裡に様々な「歌や踊り」と親しんでいられる現状に感謝しています。

私が一番好きだったアンカーAnchor)のダン・ラザーDan Rather)が辞任してしまうようなので、彼のファンとしては少々残念です。彼をご存知ない世代の方は「その人、誰?」と思われるでしょうけれども、彼の鋭い切り込み方は日本の名だたる男性キャスターたちにも絶大な影響を与えました。また、彼の語り口は非常に味わいがあり、彼の声が録音されたテープやCDが出るほどでした。

CBSテレビのダン・ラザー氏が辞職表明 ニューヨーク――米CBSテレビは20日、報道番組「イブニング・ニュース」の人気キャスターだったダン・ラザー氏(74)が辞職の意思を固めた、と伝えた。44年間に及ぶCBS勤務に終止符を打つことになる。現契約は今年11月までだが、それ以前に社を離れる見通し。別のテレビ局番組に週1回の出演の依頼を受けていることも明らかにした。ラザー氏は2004年9月8日、CBSの看板番組「60ミニッツ」で、ブッシュ大統領のテキサス州兵時代の軍歴疑惑問題で、報道の根拠とした書類の信頼性が不十分だったとして、誤報を認め、謝罪した。この問題を背景に、05年3月に24年間担当した「イブニング・ニュース」を降板。以降は、「60ミニッツ」などに出ていたが、主要な仕事を担当させてもらえず、不満を募らせていたとされる。CBS側が提示した新たな雇用契約では、取材前線に出る「現場職」への言及はなかったという。ラザー氏は1931年、テキサス州に生まれ、50年にAP通信の記者としてジャーナリストのキャリアを開始。62年にCBSの特派員となり、63年のケネディ大統領暗殺事件で、最初に死亡を伝えた記者として著名になった。70年代のウォーターゲート事件、2001年の米同時多発テロなど大ニュースも伝えた。
[2006.06.21 Web posted at 16:22 JST-CNN/AP/REUTERS]


2006年7月初旬
に某所で行なわれた(私が所属している良心的な老舗教材会社とは別の)某英語教材会社の『指導者用セミナー』に参加してみて、非常に驚きました。参加する前から大体予想はついたものの、ちょっと困ったなと感じたことを書きます。指導者として集まったのは主婦らしき女性たち20名程度、講師は当該教材会社の社長を務める太った中年女性でした。彼女のいかにも日本人的な英語の発音を一言聴いただけで帰りたくなったところを、「これも何かの天命」と我慢して最後まで参加しました。英語のアルファベットを、私が良く知っている《きらきら星》とは違う非音楽的な曲で歌わされ、「これは何?」と思っていると、すぐさま次は踊りとも何とも言えない振付けで、またもや日本人の作った非音楽的な英語の歌を5曲も歌うことになり、辟易(へきえき)しました。さらに、子供に大きな絵を見て指導者が何かをコメントする場面では、「道路上に車があります」というような、ほとんど意味のない短い表現をさせられました。自分が小学校時代に、子供が一斉に習う英語ではなく、中学生向けの英語教育の教材(テキスト+カセットテープ約20巻)を買ってもらうと同時に教会の宣教師から個人的に習っていたため、まさか巷(ちまた)でこんな教育が行なわれているとは知らず、今まで書いた記事を大幅に書き換える必要があると感じました。①大津由紀夫/鳥飼玖美子小学校でなぜ英語――学校英語教育を考える』(岩波ブックレット、岩波書店、2002年3月)、②鳥飼玖美子危うし!小学校英語』(文春新書、文藝春秋社、2006年6月)、③鳥飼玖美子/マーク・ピーターセン何で小学校で英語やるの」『文藝春秋』(2006年8月号、第84巻第11号、200~208ページ)を基にして、ブログを訂正し始めました。ちなみに①と②は大体同じ内容であり、③がコンパクトにまとまっています。ついでに「白洲次郎――プリンシプルの男」という記事も読めるため、何か一冊買うなら③が良いと思います。ともかく、教養も技術もない先生によって、小学校で一斉に英語を教育されたら、とんでもないことになると強く懸念しています。しかも、極めてレヴェルの低い音楽ダンスが同時に教えられることは、音楽とダンスにほぼ人生の半分をかけている私にとって憂慮すべきことです。以下の記事で、上述の感想と矛盾する部分は、随時書き換えます。

学習効率を考えると、個人的に勉強しない限り、外国語の習得はなかなか出来ません。一見教育界とは無縁ながら、『幼稚園では遅すぎる――人生は三歳までにつくられる!』サンマーク文庫、1997年)などの著作を残しておられるソニーの元会長・井深大いぶか・まさる)氏の影響を強く受けた父親に教育されて来たため、私は外国語運用能力が多少、身に付きましたが、実は国語能力に関して、自信がありません。

仕事で訪れた香港で、俳優ジョン・ローン John Lone (尊龍)ばりのエリート中国人が、きちんとした英語と日本語で私に話して来た時には、内心「負けた」と思いました。私は「ニーハオ =こんにちは」「シェイシェイ 謝謝=ありがとう」「ツァイチェン 再見=また会いましょう」を下手な発音で口にして、お世辞を言って貰い、自分がお客さまであることをまざまざと認識しました。俳優ジョン・ローンのかっこよさは、ダンスを含めてきちんとした俳優の教育を受けていることに由来しますが、それを述べる後日に回します。

採用試験の語学は英語だけ(共同通信) 国立国会図書館が今年の採用試験で、これまで6カ国語からの選択としていた語学の出題を、英語だけにすることが分かった。関係者からは「国会図書館の業務には多様な言語の専門家が必要だ。国際化に逆行する」と懸念の声が上がっている。採用試験は3段階。1次の教養試験に続く2次試験で、図書館情報学などの専門科目と語学が課される。今年は24日に実施する。[共同通信社:2006年06月17日 10時10分]

「小学生に外国語を教える必要はない」と言っておられる頑固なおじさまたちは、このような事態を憂慮するのが先ではないでしょうか?後述する外国マスメディアの情報を他人の訳で読まなければならないのは、靴の上から痒いところを掻いているようなものです。外国人相手に仕事をする場合、通訳に頼り切るのは、かなり危険だと思います。また、いかにもファッション・センスの悪いおじさまたちが、とりわけ声高に「英語不要論」を唱えているように見えます。我が母校の藤原教授は「女子大生にもてない」ことをネタにして自虐的な笑いを取っておられるため、ご自分が「女性にもてない」という自覚のない他のおじさまよりは微笑ましいと思いました。しかし、ご自分が「女子大生にもてない」要因を真剣に突き止めて改善しようとなさらない性格ないし諦念が、外国語を上手く操れないことに繋がっているとは気付いておられないようです。また、余りにも発音の悪い人に言いたいのは、発音矯正が模範と自分の違いを認識して自分の「かっこ悪いところ」を改善していく作業だということです。


2006年6月5日に、元官僚であり、ファンドを経営するモノ言う株主に転身した村上世彰くんが、インサイダー取引容疑で逮捕されました。(Yoshiaki Murakami, the former bureaucrat turned shareholder activist who ran the fund, was arrested for alleged insider trading.)率直に言えば、彼の行為はインサイダー取引ではなく株価操作だと思います。彼が2002年に「東京スタイル」へ文句をつけていた頃には、外国のメディアが彼を「アジアのスター The Star of Asia」と持ち上げていたのを思い出すと、少々複雑な気持ちになりました。彼の父親が華僑overseas Chinese)2世であることから、世情に疎い私でさえ予想の付きそうな、華僑やアメリカの機関投資家(institutional investor)のお金や中近東のオイル・マネーのことを報道しないマスコミには、少々胡散臭さを感じます。彼がスケープ・ゴートになって、この事件は片付くのでしょうか?私は彼に対して「子供っぽい(childish)」「やりすぎた(did too much)」といった感じを持っています。一番残念なのは、彼の目的がいつの間にかお金を儲けること自体に変わったことです。行動のスケールが違いすぎて全く比較になりませんけれども、アル・カイーダの親玉兼実業家ウサマ・ビン・ラディンUsama bin Ladin)が、イスラムの言葉によれば「白い肌の悪魔たち」のはびこるウォール街で巨額の資金を投資し、テロを起こしてウォール街を混乱させ、その混乱に乗じてあぶく銭を巻き上げていることこそ究極の株価操作と言えるでしょう。正当性はともかくとして、彼が儲けたあぶく銭を軍資金として自分の信念を遂行しているのを思い出すと、チマチマした日本人投資家のあり方が恥ずかしくなります。ちなみにビン・ラディンの母親は、パレスチナ出身だそうです。もちろん私は人命をものともしないテロを容認するものではありませんが、パレスチナには限りなく同情的です。まず、パレスチナとイスラエルの争いがなぜ起こったか、考えてみましょう。Get real ! 中立的な記述を求めて、2回目の大学受験で使った高校の世界史の教科書から一部分を抜粋します。念のために申し添えれば、ユダヤ人が世界のあちこちを放浪していた間、パレスチナにはアラブ人が長年に渡ってオスマン帝国の支配を受けたりしながら細々と暮していました。

パレスチナ地方については、(第一次)大戦中、イギリスは(ママ)1915年フサイン(今の常識ではフセイン=マクマホン協定によってアラブ人に対してトルコからの独立を約束し、一方、1917年のバルフォア宣言によって、ユダヤ人のパレスチナ復帰運動(シオニズム)を援助する姿勢を示して双方から協力を得た。こうした相対立する約束に加えて、戦後この地は委任統治領になったので、アラブ・ユダヤ両民族はそれぞれに主権を主張して衝突し、現在まで続く深刻な対立が始まった。
[江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治『詳説世界史』山川出版、1993年文部省検定済] 

当時のイギリスの政治家はアラブ人とユダヤ人に対して二枚舌とも言える条約を締結した上、フランスとは1916年にアラブ地域を植民地として分割するサイクス・ピコ条約を結んでいました。つまり、アラブ人もユダヤ人も当時のイギリスの政治家に騙されたことによって収束し難しい報復の連鎖が始まり、アメリカの協力によってイスラエルの領土が増える一方なのです。2001年9月11日に起きた世界貿易センター(World Trade Center)破壊などを取り上げて、 アメリカ人が一方的な被害者意識を持つのは筋違いであり、2機の小型飛行機がビルに突っ込む扇情的な映像を見て、日本人がアメリカの追随をするのは、情けないことです。ビン・ラディンが本当に悪魔ならば、アメリカの原爆施設を破壊することも出来たはずです。そうしなかったところに、彼の人間性美学を感じると言ったら言い過ぎでしょうか?また、ユダヤ系以外のアメリカ人やアメリカの盟友としての日本人が第一になすべきことは、アメリカにイスラエルの味方を止めるよう、声を上げることではないでしょうか。私はシェイクスピアの戯曲から《007》に至るまで、イギリスのドラマが大好きであり、男女を問わずイギリスから来日している優秀な方々のお世話になっているため、昔のイギリスの政治家のやったことを現在のイギリス人の責任にしようとは思いません。

村上くんに話を戻すと、彼はまだ子供過ぎて代表執行役ないし最高経営責任者(the chief exective officer)の(うつわ)ではありません。ただ、他人の資金を株式市場(the stock market)という最高に競争の激しい場(super competitive field)で増やして、20%もの配当を金主に払うようなプレッシャーのかかる仕事(a high pressure job)を私がすることはありません。そんな無謀なことに悩まされて(it will bother me)健康に影響を受ける(and affect my health)なんてとんでもないことです。従って、今の時点で(for now)私が言えることは、他人の意見の受け売りになりますが、「他人の幸福を犠牲にしないで、自分の幸福を追求する」のが正当であり、「企業は株主のためにあるのではなく、従業員や社会のためにある」ということです。また、いくら相手がバカに見えたとしても、一緒の道を歩いて来た仲間のホリエモンを騙すあたりが、村上くんの致命的な欠陥だと思いました。現在私が勉強している、世界で最も立派な先生の書物に荀子(じゅんし)の宥座(ゆうざ)から引用した「五悪」というものが書かれていて、1つ目から3つ目までは村上くんに当てはまり、4つ目の前半は私にとって耳の痛いことなので、私が原文を現代語に転換して以下に列挙します。

盗賊よりも悪質な者が5つある。1つ目は仕事がよく出来て、心険しい者。2つ目は行ないが偏向していて、しかも頑固な者。3つ目は言うことが実は偽りで、しかも口が達者な者。4つ目はくだらないことばかり覚えていて、しかも博識である者。5つ目は悪い勢力に附いて、しかもよく恩を売る者。いずれも世を乱るものである。

私がくだらないことばかり覚えているというのは、1949年頃に起こった「光クラブ事件」をかなりマニアックに覚えているからです。連日の「村上ファンド事件」報道を見て、半世紀以上前に青酸カリ自殺した実在の学生金融会社「光クラブ」社長山崎晃嗣(あきつぐ)氏の事件が蘇って来ました。もっとも、私が生まれる前の事件であり、山崎氏が本文を書いて彼の最後の女性?がまとめた『私は偽悪者』という自伝が我が家の隅にあったため、高校生の時にこっそりと読んだだけです。山崎氏をモデルにした作品の一つには、高木彬光(あきみつ)の『白昼の死角』があり、私は『白昼の死角』の映画化されたものを見ました。しかし、「事実は小説よりも奇なり」という諺(ことわざ)通り、『白昼の死角』よりも『私は偽悪者』の方が奇奇怪怪でした。山崎氏の自伝は、おそらく今読んだなら、大してショックを受けなかったでしょう。しかし、「金と女は道具である」などということが古文調で書いてあったため、極めて多感な高校生であった私は、かなり大きなショックを受け、「勉強ばかりしているとこういう人間になってしまうのだろうか」という気持ちを抱きました。「8人の女性」を冷淡に描写して彼の「女性観」を如実に表していたくだりは、今でも記憶に残っています。最近、家中をひっくり返してこの本を探しても見つかりませんでした。私が東京へ行っている間に「不適切な図書」として廃棄処分されたのでしょう。

つまらないことを書いてしまったので、気分直しに葉祥明(Yoh Shomei)さん(画家、詩人、絵本作家:1946年7月7日生まれ)の詩集『窓をあけよう』(大和書房、1995年)をご紹介します。この本は、小さなやさしい(易しい・優しい)本で、我が家の愛読書になっています。暗澹たる気持ち・荒涼たる気持ちに陥った時に、この詩集を読むと、非常に慰められます。また、凡庸で非力な我々が、やみくもに「お金儲けをしよう」とか「有名になろう」とか「偉くなろう」とかいう発想を持つことを問い直すには、良いきっかけになるでしょう。

まだ子供の村上くんよりも、労せずして甘い汁を吸った大人たちこそ、もっと糾弾されてしかるべきでしょう。甘い汁を吸った大人たちの実名は、既に様々な週刊誌に出始めたので、削除しました。

福井総裁1000万拠出、海外メディアも批判的(読売新聞) 【ワシントン=広瀬英治】日本銀行の福井俊彦総裁が「村上ファンド」に資金を拠出していた問題は、海外メディアも高い関心を示している。特に、野党の辞任要求などによる政治問題化で、福井総裁が日銀の独立性を揺るがしてしまったとの厳しい見方や、トップらの資産公開制度が整備されていない日銀への批判的な論調が目立つ。国際的に、中央銀行総裁には高い倫理が求められており、資産管理に対する認識の甘さから大きな騒動を招いた福井総裁と日銀への厳しい視線は今後も続きそうだ。16日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は、野党の辞任要求が出ている福井総裁を政府・与党が擁護している現状を踏まえ、「日銀が政府の意向を押し切ってゼロ金利政策の早期解除を決断することは難しくなった」と指摘した。英紙フィナンシャル・タイムズ(同)も「今回の騒動は、日銀が金融政策の独立性を保つ上での障害になりかねない」との見方を示した。[読売新聞社:2006年06月17日00時06分]


男の子は、「男の美学――noblesse oblige」の項目でも紹介した斎藤兆史(よしふみ)著『英語達人列伝』(中公新書、2000年)の達人たちまでは行かなくても良いけれど、多少は頑張って欲しいと思います。欲を言えば、幼少期に英語でなくフランス語を習わせるのが理想的だと思います。フランス語の動詞変化や発音をマスター出来れば、英語やイタリア語の習得がかなり容易なのではないかと推測出来ます。また、フランス語の出来る男の子が、それだけでもかっこいいと感じるのは私だけでしょうか?時々、つづり字と発音の関係が規則的なドイツ語やイタリア語が世界の共通語になった方が良いとも考えます。昨今のサッカー熱を契機として、ドイツ語やイタリア語がもっと盛んになることを祈っています。しかし、現実問題として、学術論文は英語で書かないと書いたことになりませんし、日本経済新聞などを見ると英語学習の教材の宣伝が大々的に出ていますので、やはり英語を使えないと差し支える状況なのだと半ば諦めています。それから、外国語をやらない子供が母国語の本を良く読むとは限りません。子供は暇を持て余して、巷にあふれているゲーム機で遊んでしまうかも知れません。

ここで、英語の名言を示します。

All the sweetness in life is the bottom of coffee cup.

これが私の一番身にしみる英文ですが、何年経っても日本語訳をつけるに至っていません。

私は杉田敏先生のNHKラジオ講座『ビジネス英会話』をかなり長い間聴いていました。いつも講義の最後に素晴らしい英語の引用を紹介してくださったので、心に残ったものを以下に紹介します。私が多少、訳を変えた文もあります。このブログにも登場し、今の私を慰めたり納得させたりしているジョージ・バーナード・ショウ George Bernard Shaw ( 1856-1950 ) の言葉の引用を2つ示します。

A life spent in making mistakes not only more honorable but more useful than a life spent doing nothing. 
間違いを犯してばかりの人生は、何もしなかった人生よりも、あっぱれであるだけでなく、有益である。 

The greatest problem in communication is the illusion that it has been accomplished.
コミュニケーションにおける最大の問題は、それが達成されたという幻想である。

その他の偉人の言葉で、気に入っているものを以下に引用します。

Example is leadership.
身をもって示すことが、リーダーシップである。  Albert Schweitzer ( French-German physician, music scholar, philosopher and winner of Nobel Peace Prize, 1875-1965 )

The elusive half-step between middle management and true leadership is grace under pressure.
中間管理者層と真のリーダーシップの微妙な半歩の違いは、プレッシャーの下で優雅さを保てるかどうかであろう。  J.F.Kennedy ( 35th U.S. President, 1917-1963 )

I am learning all the time. The tombstone will be my diploma. 
私は常に学んでいる。墓石が私の卒業証書である。  Eartha Kitt ( U.S. jazz/pop singer, 1928- )

The great end of life is not knowledge but action.
人生の大きな目的は知識ではなく行動にある。
Thomas Henry Huxley ( British biologist, 1825-1895 )

A man is the sum of his actions, of what he has done, of what he can do, nothing else.
人は、何をして来たか、何が出来るかという、行動の集積に他ならない。
Andre Malraux ( French statesman and novelist, 1901-1976 )

Greatness is the dream of youth realized in old age. 
偉大さとは、年を取ってから実現した若い頃の夢である。
Alfred Victor Vigny ( French writer, 1797-1863 )

I know God will not give me anything I can't handle.
私は神が私の手に余るような事柄をお与えにならないことは承知している。
Mother Teresa ( Catholic humanitarian and missonary, 1910-1997 )

Don't judge each day by the harvest you reap, but by the seeds you plant. 
毎日をその日の収穫高で判断せずに、まいた種で判断しなさい。
Robert Louis Stevenson ( Scottish novelist, 1850-1894 )

The toughest thing about success is that you've got to keep on being a success. 
成功して最もつらいことは、その後も成功者であり続けなければならないことである。
Irving Berlin ( Russian-U.S. songwritter, 1888-1989 )

Where there is an open mind, there will always be a frontier.
偏見を持たなければ、必ず新境地は開ける。
Charles F.Kettering ( U.S. electrical engineer and inventor, 1876-1958 )

To accomplish great things, we must not only act, but also dream, not only plan, but also believe.  偉大なことを成し遂げるためには、行動するだけでなく夢を持つこと、計画するだけでなく信じることが必要である。 Anatole France ( French novelist, 1844-1924 )

The wisdom of the wise and experience of ages may be preserved quotation. 
賢人の知恵と歴年の経験は、引用句に記されてもしかるべきである。
Isaac D'Israeli ( British scholar, 1766-1848 )

Kinds words can be short and easy to speak, but their echoes are truly endless. 
思いやりのある言葉は、短く簡単なものであっても、その反響は実に無限である。
Mother Teresa ( Catholic humanitarian and missionarry, 1910-1979 )

Any fact facing us is not as important as our attitude toward it, for that determines our success or failure.
直面する事実のいかなるものも、私たちのそれらに対する態度ほど重要ではない。なぜなら、これで成功か失敗かが決まるのだから。  Norman Vincent Peale ( U.S.pastor and writer, 1898-1993 )

The truth of the matter is that you always know the right thing to do. The hard part is doing it.
実際のところ、何をすべきかは常に分かっている。難しいのは、それを実行に移すことである。
H.Norman Schwarzkopf ( U.S.general, 1934-  )

If the creator had a purpose in equipping us with a neck, he surely meant us to stick it out.
創造主が私たちに首を授けた目的があるとすれば、それは私たちに首をかけて物事に当たらせようとしたからに違いない。 Arthur Koestler ( Hungarian-British auther, 1905-1983 )

All things are possible until they are proved impossible―and even the impossible may only be so, as of now.
物事は全て、不可能だと証明されるまでは可能である。また、不可能なことがあっても、現在のところそうであるだけなのかも知れない。 Pearl S. Buck ( U.S.novelist, 1892-1973 )

Difficulty is, for the most part, the daughter of idleness.
困難は、多くの場合、怠惰の所産である。
Samuel Johonson ( British critic, poet, journalist, essayist, and lexicographer, 1709-1784 )

シュトゥッケンシュミットの著作『FerruccionBusoni: Zeittafel eines Europäers ( Zürich: Atlantis Verlag, 1967 )』  からブゾーニの美しい筆跡を転載します。

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2006年8月31日 (木)

ブゾーニの美学1

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

オペラ《トゥーランドットTurandot》1911年の初演でカラフを演じたアレクサンダー Alexander Moissi の写真がアントニー・ボーモント Antony Beaumont の著作『Busoni, the Composer』に掲載されています。1917年にチユーリッヒ Zurichで初演 world première された《アルレッキーノ Arlecchino》のタイトル・ロール title role もアレクサンダーが演じており、脚を3番に開いた、いかにもダンサー的な立ち姿をした写真が同じく『Busoni, the Composer』に掲載されています。写真を見る限り、どう考えても彼はダンサーであって歌手ではありません。ブゾーニが「歌わないダンサー(ないしダンスの得意な俳優)」を自らのオペラの主役級に起用したことは、ダンサーの末席に身を置いていた私には非常に興味深く感じられます。このことに関しても、もちろん断りなく自由に引用して頂いて構いませんが、残された写真からこのことを読み取って「明文化」したのは私が最初なので、「私の見解」であることを併記してください。

さらに、ブゾーニは金銭感覚が一般人と違い、極めて金離れが良いと言えるような人でした。私はブゾーニに関していろいろな本を濫読したので、どの文献に何が書いてあったか曖昧になってしまったのですが、お金に対する執着のほとんどない人だったことは確かです。演奏活動、作曲・編曲活動、教育活動などによって、かなり多額の収入を得つつ、蓄財ということをしていません。様々な仕事で得たお金で、「ゲーテの著作」を片端から蒐集(しゅうしゅう)したり、幅広い人々と社交的に付き合って散財したり、酒・タバコを死ぬまでやめなかったり、高額な家賃を払ってアパートメント生活をし続けたりしていました。弟子が演奏旅行に出かける際には、ポケットから金貨を出して、惜しげもなく弟子に与えたりしています。晩年には、今まで僅かながら銀行に預けていたギャラが通貨の切り替えでほとんど紙切れになってしまったのに、何の手も打てなかったようです。しかし、ブゾーニは野垂れ死にしたわけではありません。自分の死をかなり早い段階で覚悟し、覚悟の上で「最後のリサイタル」を開いていますし、最後の「パリ旅行」もしています。死を目前にしたブゾーニが、なぜパリへ旅行したかったか、フランス語が下手ながらパリの大好きな私には、何となく分かるような気がします。

また、ブゾーニが仏像の蒐集家であったことが文献に残っています。ブゾーニのエッセイの中には、仏教に関する興味深い記述もあります。彼がどの程度、仏教に帰依していたかは分かりません。しかし涅槃(ねはん)という言葉を 『Entwulf einer neuen Aesthetik der Tonkunst. Berlin: BerlinerMuskalien Druckerei GmbH, 1907 ( 英訳 Sketch of a New Aethetic of Music. Translated by Theodore Baker, London: G. Schirmer, 1911 )』の中で引用しています。私の日本語訳は、ドイツ語に基づいており、英訳と多少違いますが、ドイツ語を読みたくない人に最大公約数的理解を得て頂くため、英訳も併記します。

Nicht alle erreichen das Nirwana; aber jener, der von Anfang an begabt, alles kennen lernt, was man kennen soll, alles durchlebt, was man durchleben soll , verläßt, was man verlassen soll, entwickelt, was man entwickeln soll, verwirklicht, was man verwirklichen soll, der gelangt zum Nirwana. ( Kern, >Gschichte des Buddhismus in Indien.<.)

Not all reach Nirvana; but he who, gifted from the begining, learns every thing that one ought to learn, experinces all that one should experience, renounces what one should renounce, develop what one should develop, realizes what one should realize―he shall reach Nirvana.      

あらゆる人が全て涅槃に到達するわけではない。生まれつき才能のある者で、知るべき全てを知り、体験すべき全てを体験し、棄てるべきものを棄て、(自己)開発するべきことを開発し、自己実現するべきことを自己実現する者こそ涅槃に到達し得るのである。(ケルン著『インド仏教史』)

Marcel Grilli マルセル・グリリがブゾーニについて『新音楽辞典 人名』(音楽之友社、1982年、480~482ページ)にまとめたものが、現在読めるブゾーニに関する記述の中ではかなりの本質を捉えていると思います。ただし、マルセル・グリリの解釈の全てが正しいわけではないし、この辞典は項目を書いた人によって記述のレヴェルが違いすぎるため、この辞典自体の購入はお勧め出来ません。しかし、隠蔽するには惜しい記述なので、当面の妥協案として481ページの後半以降の小瀬村さんの訳を以下に引用します。

ブゾーニは、20世紀音楽の根源的存在である。彼は、新しい音楽美学に関する警句的エッセイ(『音楽美学の構想』1907、増補第2版1916)やその後の数多くの著述、個人的書簡などの中で述べているように、根源的に新しい思想に満ちていた。しかし、不思議に、自分自身の音楽については、調性、音階、新しい音響の実験を行ない、また未来をみつめて先に立つ考え方はすべて熱心に受容しようとしながら、厳しく伝統のわくの中で作曲している。彼は音楽に主知的アプローチをする点で新古典主義者であり、ロマンティックでエゴイスティックな表現や音楽を個人の感情吐露や投射の媒体として使うことに反発した最初のひとりであった。

彼の個人的全体像として浮かぶものは、自らの気質の中でディオニュソス的、あるいはバッカス的ともいえる性向と闘いながらプラトン主義に準じる観念論者の姿、つまり、2つの対照的な文化によって成り立ちながら――イタリアとドイツの血によって――両者の中間に位置する人間像である。そして、それは、常に前方をいぶかしげにみつめる予言者としての芸術家の姿であるが、自らのリサイタルのプログラムには同時代の作品を滅多に盛り込むことはなかった。彼は、即物的な成功をべっ視したにもかかわらず、あまりほかに例のないほどに徹底して輝かしいキャリアがついてまわった高潔の勇士であった。そして、何よりも彼は、現在の音楽に与えている彼の影響がどれほど深いか認識されていない程に深い、まさに啓示的な思想家である。

たぶん、ブゾーニの大傑作であり、最後の作品であり、そして彼が芸術家として思索し、経験したすべてのことがらの究極的集大成であるオペラ『ファウスト博士』が、彼自身の運命を象徴的に表していると言えよう。感動的な最後の場面で、死にひんしたファウストは雪の積もる地面に自ら我が子と認めた死んだ我が子を横たえる。「わしの果たし得なんだすべてを、お前がなすのだ・・・それによりわしは、まだ力を持てるかも知れぬ、お前を通して・・・お前のもうける子供のなかで」と言いながら。

かなりの孫取りになりますが、ブログは論文ではないのでお許し頂き、アルフレッド・ブレンデル「一人のモーツァルト奏者の自戒の言葉」(石井宏訳、『モーツァルト:ピアノ曲全集』、株式会社学習研究社、1989年、6ページ)から、ブゾーニがモーツァルトの音楽について、かなりディオニュソス的な際どい記述をしている部分を以下に示します。

まちがいなくモーツァルトは歌唱から出発している。そこから途切れることのないメロディアスな性格が彼のすべての曲の上に輝き出すのである――薄いドレスのひだを通して美しい女の体の線を見るように。 

20世紀末に大ヒットした映画『Amadeus アマデウス』は、サリエリの目を通して見た、きわめてディオニュソス的なモーツァルト像が描かれています。それまでモーツァルトを天使のように捉えていたモーツァルト・ファンの方々には、かなり残酷な映画だったとは思いますが、この映画は少々大げさながらモーツァルトの一面を良く捉えていたと私は見なしています。ブゾーニはモーツァルトのディオニュソス的な部分を既に作品からも捉えており、上述のようなことを書き残したのだと思われます。ブゾーニは幼少期から華々しくピアノの演奏活動を行なってリストやブラームスに絶賛され、ボローニャのアカデミア・ムジカからモーツァルトと同等の名誉ある扱いを受けた神童です。しかし、成人したブゾーニが多少自由に生きつつも、モーツァルトのように若くして自ら破綻したような悲惨な人生を送ることがなかったのは、モーツァルトの生き方を反面教師として自重したのではないだろうか、と私は推測しています。ただし、モーツァルトが貧しかったというのは19世紀~20世紀の学者が描いたモーツァルト像であり、21世紀初頭の最新研究によれば、モーツァルトの生涯収入は2億円を優に越えており、決して貧しくはなかったようです。

また、1959年に音楽之友社から服部幸三先生の訳で出版されたフーゴー・ライヒテントリット音楽の歴史と思想』(Hugo Leichtentritt, Music, History and Ideas. 改訂第9版、1950)に関して、最近の音楽学者の中には「内容に誤りがある」と言う人もいます。確かにシェーンベルクをさんざんにこき下ろしているところと、ブゾーニの音階を112通りと書いているところは間違っています。しかし、文化が絶えず進歩しているというのは、学者にありがちな傲慢さの表れでもあり、私には服部幸三先生以上に素晴らしい音楽学者・翻訳者は存在しないと思っていますし、ライヒテントリットの記述も当時の風潮を良く捉えていて素晴らしいと私は考えます。それで、ライヒテントリットがブゾーニをどのように描いたかを以下に示します。なお、原文『Hugo Leichtentritt, Music, history and Ideas. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Rress, 1938』 を取り寄せ、検討してはいるのですが、自分の訳を打ち出すに至っていないので、ここでは服部先生の訳を引用させて頂きます。なお、誤植・古い表記・送り仮名・句読点・難しい漢字の読み仮名などを、適宜、補足・訂正してあります。

ヴァーグナーに対抗して20世紀の新芸術を作り出す次の歩みは、ベルリン、ウィーン、ペテルスブルグでおこった。ベルリンではフェルチォ・ブゾーニが20年の間、何か本質的に新しいものを真面目に生み出そうとするあらゆる思想の擁護者になった。比類のないピアノの名手、作曲家、指揮者、教師、随筆家、芸術哲学者であったブゾーニは、最高の芸術的、知的タイプに属する優れた人物であった。彼は現代運動の焦点に立ち、あらゆる傾向を知り尽くし、すべてを厳格に吟味してある物は是認し、ある物は撥(←は)ねつけた。ドビュッシーとラヴェル、マーラーとシュトラウス、デリアスとシベリウス、ストラビンスキーとシェーンベルク、カルセラ、マリピエロ、ビツェッティ、バルトーク等は、すべてブゾーニに事細かに知られていた。ほとんど毎晩のように客を迎える彼の住居、ベルリンのヴィクトリア・ルイゼ広場11番地には、各国から集まった若い芸術家たちの会合があった。この会合は、誰もが自由に発言し、当時の芸術上の問題について激しい論争が闘わされ、ブゾーニのエスプリと機知(ウイット)、優れた理解力、成熟した判断力、素晴らしい批評が加わることによって、またとなく輝かしいものであった。おそらく混乱した国家主義的な、みじめな現代には、このような集まりはもうあり得ない。それは実際、われわれがプラトンの鮮やかな筆の運びを通じて知っているソクラテスの饗宴(シンポジウム:注:服部先生の訳は談話室)の一種の現代版であった。

ブゾーニの驚くべき多才は彼の作曲に表われているが、2・3のバッハの編曲を除けば、アメリカではほとんど知られていない。彼は種々の新傾向をすべて選り分け、それをエキスに煮詰めて、自分の個性的な表現法の根本的特質には重大な変化を及ぼすことなしに、不思議な香りを添えている。この長い蒸溜過程を通じて、彼はついに本当に価値のある、要素の高度に凝縮された本質を手中に納めた。そのような絶え間のない精錬、高い精神と高度に煮詰められた本質、非本質的・通俗的なものの完全な排除、この上なく複雑で困難な問題のごくあっさりとした提示のために、彼のスタイルは幾分いかめしい近づき難いものになっている。親しみ易い特性は、明るいイタリア風の旋律が時折暗示されるのを除けば、ほとんど全く見られない。そのために、彼ほど偉大な芸術家のこの上なく価値の高い音楽が、ごくわずかしか知られていないという不思議な事実が生まれてくる。実際、彼はごく稀な教養の高い潔癖な鑑賞家の内輪のサークルにだけ話しかけるのである。自分の芸術上の遺言書として彼は、詩的にも非常に優れた自作のリブレットに基づくオペラ『ファウスト博士』を書いた。《ファウスト博士》は、最も立派な現代作品の一つであるが、難解さと思想の超越性のために、オペラ通いの大部分の大衆にはおそらく理解されることがないであろう。だが、ドイツでは、音楽祭の催しには繰り返し演奏されており、この高い水準について行ける人達には、いつも深い感銘を与えている。血筋も、教育も、半ばドイツ、半ばイタリアに育ったブゾーニは、個性と芸術の面でも二つの国民性を持ち合わせている。イタリアの活気と陽気さ、単純さ、明瞭さ、形態の優美に、ゲルマン民族のファウスト的な知性、理想主義、内容の重み、感情の強烈さが融(←と)け込み、その結果、彼の芸術はほとんど並ぶものがないユニークなものになっている。彼の究極の理想は、彼が最も熱烈に尊敬していた大家、バッハとモーツァルトに基づく新古典主義であり、彼の狙いは、バッハの構成技術と複音楽の論理、モーツァルトの明快さと優雅さに、現代の和声と管弦楽法のすべての成果を結び合わせることであった。

ブゾーニの新古典主義はイタリアにも、ドイツにも、かなりの影響を及ぼした。ヒンデミットとエルンスト・トッホ、イタリアのカルセラ、マリピエロ、ピツェッティの音楽には、その傾向が見られる。このグループのうち、最も成功したパウル・ヒンデミットは、反ロマン主義的傾向と厳格な構成、ブゾーニ的な線的ポリフォニーを主体として、その上一層現代的で論争の的になり勝ちな種々の特質、つまりシェーンベルクの無調性、機械のようなリズムを強調するストラヴィンスキー風のダイナミックス、同じくストラヴィンスキー特有のグロテスクな要素をつけ加えている。彼の最良の作品では、このような種々の異質な要素を非常に巧みに綜合しているので、それから受ける全体としての感じは全く個性的なものである。

フーゴー・ライヒテントリット『音楽の思想と歴史』(服部幸三訳、音楽之友社、304~306ページ)

Pour les musiciens professionnels プロの音楽家の方々のために

The following is dedicated mainly to Mr. N. who is a composer and pianist playing worldwide.
以下は、作曲家兼ピアニストとして世界的に活動しておられるN氏へ、主として捧げられています。N氏のご指摘を受けて、研究が手薄なブゾーニの若い頃に関する記述を提示します。N氏以外の皆さんは、ドイツ語と英語の類似性をお楽しみください。

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《Nach geradezu verzweifelten Schwierigkeiten, umgeben von einer großen Verwandtenschar》habe er das Tageslicht erblickt.
'After a desperate struggle, witnessed by a crowed of relatives' he first saw the light of day.

So schilderte Ferruccio Busoni 1909 seine Geburt.
That was how Ferruccio Busoni, writing in 1909, described his birth.

Empoli, wo er zur Welt kam, ist ein bescheidednes Städtchen der Toscana am linken Arno-Ufer, der Herzstadt Florenz näher als dem südlichen Siena und dem westlichen Pisa.
Empoli is a modest little Tucans on the left bank of the Arno, nearer to the main town of Florence than to Siena in the south and Pisa in the west.

Die Busonis stammten nicht von dort, sondern waren vermutlich aus Korsica über Livorno eingewandert.
The Busonis weren't Tuscan but probably came over from Corsica by way of Leghorn.

Vater Ferdinando war ein Außenseiter der in bürgerlichen Beschäftigen zeitweize zu Wohlstand gekommen Familie.
His father, Ferdinando, was  the outsider in a family that, fom time to time, had achieved success in the middle-class business world.

Musik und Literatur beschäftigungen zeitweize den 1834 Geboren seit seiner Jugend, und gegen den Willen des Vaters bildete er sich zum Virtuosen aus.
Born in 1834, from the time he was a child music and literature were his only interest; and in spite of his father's disapproval, he developed into a virtuoso performer.

Sein Instrument war die Klarinette, die er zunächst hauptberuflich in einer Livorneser Blaskappelle spielte.
His instrument was the clarinet, and in the early days he played mainly in a brass band in Leghorn.

Streitsüchtig von Natur, zu kollegialem Orchesterdienst aus diesem Grunde wenig geeignet, strebte er die Sollistenlaufbahn an.
Quarrelsome by nature, and therefore not endowed with the team-spirit essential for playing in a band, his ambition was to be a solist.   

Nach kurzer Tätigkeit als Klarinettist des städtischewn Orchesters und Lehrer am Instituto [注:原文は Istituto となっていて、n が落ちた誤植] Musicale von Novara begann er das Reiseleben eines konzertirenden Künstlers mit einem Repertoire von Glanzummern, in denen Opernfanrasien den gleichen Rang einnahmen wie Originalstücke für Klarinette.
After a short period as clarinettist in the local orchestra and teacher at the Instituto Musicale in Navara, he took up the nomadic life of a concert performer, with a glittering repertoire which included as many operatic fantasias as original compositions for the clarinet.

Ferdinando Busoni muß ein überrangender Spieler gewesen sein; das bezeugt sein großer Sohn ebenso wie seine Ehrenmitgliedschaft der Accademia Filarmonica von Bologna, die ihm als Dreißigjährigem verliehen wurde.
Ferdinando Busoni must have been an outstanding player; this much is testified not only by his famous son but also by the honorary membership of the Accademia Filarmonica in Bologna conferred on him at the age of thirty.

Bei einem Konzert in Triest[注:イタリア語はTrieste] 1856 begleitete ihm seine spätere Frau, die Pianistin Anna Weiß.
At a concert given in Trieste in 1865, he was acommpanied by the woman who was later to become his wife, the pianist Anna Weiss.

《Sie stammte väterlicherseits von Deutschen, mütterlicherseits   jedoch von Italienern ab》, schrieb später der Sohn.
'She was German on her father's side, although her mother was Italian' , her son wrote later.

Wie viele Triestiner wurde sie zweisprachig erzogen, mit einer entscheidenen Vorliebe für das Italienische.
Like many people born in Trieste, she was brought up as bilingual, with a definite preference for all things Italian. 

1833 geboren, spielte sie mit vierzehn Jahren zum erstenmal öffentlich und gab einundzwanzigjährig drei Konzerte in Wien, wo ihr Liszt-Spiel Beifall fand.
Born in 1833, she first played in public at the age of fourteen and at twenty-one gave three concerts in Vienna where she was praised for her rendering of Liszt.

Der elegante, vollbärtige Klarinettenvirtuose, ein homme à femmes [注:原文は斜体ではないけれども英語訳は斜体で書かれており、フランス語であることを分かり易くするために斜体とした] , mit dem Ruf eines Don Juan, verdrehte ihr so nachdrĉklich den Kopf, daß sie sofort entschlossen war, seine Frau zu werden.
The elegant beared virtuoso clarinettist, an homme à femmes, with the reputation of a Don Juan, swept her so completely off her feet that she decided then and there to become his wife.   

Ihr Vater Joseph Ferdinand Weiß, Maler und Kunstgewerbler von einiger Weltkenntnis, wies dem romantischen Freier die Tür.
Her father, Joseph Ferdinand Weiss, a painter and craftsman with some experience of the world, promptly showed the romantic suitor the door.   

Anna setzte ihren Kopf durch und war in Kürze Frau Busoni.
But Anna got her own way, and in a short time she was Frau Busoni.

Ferdinando fügte ihren Mädchennamen zu seinem eigenen, und als Anna Weiß-Busoni war sie seine Klavierpartnerin in vielen italienischen Städten.
Ferdinando added her maiden name to his own, and as Anna Weiss-Busoni, she played with him in many towns throughout Italy.

Noch Ende März 1866 soll sie in Rom vor Franz Liszt gespielt haben.
As late as the end of March 1866 she is supposed to have played for Franz Liszt in Rome.

Am 1. April, einem Ostersonntag, gebar sie in komplizierter Entbindung einen Sohn, der auf den Namen Ferruccio Dante Michelangiolo Benvenuto Busoni getauft wurde.
On 1st April, an Easter Sunday, after a difficult confinement she gave birth in Empoli to a son who was christened Ferruccio Dante Michelangiolo Benvenuto.

Er blieb das einzige Kind, und die Ertern wandten alle Sorgfalt daran, seine Gaben rasch und gründlich zu entwickeln.
He remained their only child, and the parents did all they could to develop his parents as quickly and  thoroughy as possible. 

Das familiäre Band war, wie oft in italienischen Bürgerkreisen, sehr eng, und Ferruccio brauchte lange Zeit, um sich daraus zu befreien.
The bond between them was very close, as is so often the case in middle-class Italien families, and it was a long time before Ferruccio was able to break away from them.

Wenn er in dem 1909 geschriebenen autobiographischen Fragment erklärt: 《Schon von meinem siebenten Jahr an begannen die Eltern ihr ganzes Interesse auf mich zu stellen und selbst allgemählich weniger künstlerisch zu wirken》, so spürt man die leise Kritik hinter diesem Satz.
There is certainly a hint of criticism in the observation he makes in the autobiograhical fragment dating from 1909: ' From the time I was seven may parents began to concentrate on me entirely and gradually withdrew from their own artistic activities'

Das Wanderleben der kleinen Familie begann acht Monate nach seiner Geburt.
The nomadic existence of this little family began eight months after his birth.

Man ließ sich Ende der sechziger Jahre in Paris nieder.
By the end of the 'sixties they settled in Paris.

Ferruccio, der vorher beim Großvater Weiß in Triest als Pflegekind untergebracht war, kam nun zu den Eltern.
Ferruccio, who had previously been in Trieste with grandfather Weiss, now joined his parents.
[ドイツ語では「Pflegekind 里子」という言葉が使われているが、母方のおじいさんの家にいただけなのでSandra Morris の英語訳では省かれ、私もその方が良いと思うため、「里子」という言葉は省略した。]

Es waren die lezten Jahre des zweiten Kaiserrischs, eine Zeit gesellschaftlichen Glanzes, zu dem die reiche Bourgeoisie, wetteiferned mit dem Hof, ihre kulturellen Beiträge gab.
There were the final years of the Second Empire, a period of social brilliance when the rich bourgeoisie made their own cultural contribution in an effort to outrival the court.

Ferdinandos Virtuosentum feierte Triumphe wie nie in seiner Heimat.
Ferdinando's virtuosity achieved more success than he had ever known in his own cuntry.   

Er spielte in Hauskonzerten einflußreicher Familien, bekam überschwengliche Kritiken und war im Begriff, sein Nomadenleben aufzugeben.
He played at private concerts given by influential families, received enthusiastic press notices and was on the point of giving up his normadic life.

In dieses Glück trafen kriegsgerüchte.
His good fortune was interrupted by rumours of war.   

Noch bevor es zu dem preußisch-französischen Konflikt kam, der den Krieg von 1870/71 auslöste, verließen Busonis Paris.
Even before France and Prussia declared war in 1870, the Busoni left Paris.[注:サンドラ・モリスがなぜ原文と変えて英訳したかを考察中]

Anna wurde mit dem Kind in dem großen Triestiner Hause des Großvaters aufgenommen.
Anna and herchild went to live with grandfather (Weiss)[注:原文に祖父の苗字は書かれていないため、省いた] at his large house in Trieste.

Zwei Jahre verbrachten sie bei dem siebzigjährigen Mann, der seine Wohnung mit einer tyrannischen Haushälterin teilte, einer Serva Padrona, die der Tochter feindselig begegnete.
They spent two years with the seventy-years-old man who shared his home with a tyrannical housekeeper, a serva padrona, who deeply resented the daughter.    

Busoni rühmte später die Talente und den festen Charakter des Manners, der einst als Schiffsjunge seinen Lebensweg begonnen und Wohlstand und Ansehen erricht hatte.
Busoni was later to speak highly of the talents and determination of this man who had begun his career as a cabin-boy and achieved prosperity and social pretige.   

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Indessen führte Ferdinando, unversöhnlich mit dem Schwiegervater entzweit, sein Nomadenleben mit der Klarinette weiter.
Meanwhile Ferdinando, permanently estranged from his father-in-law, continued to pursue his nomadic career[注:サンドラ・モリス訳の英語版では carer となっており、e が落ちている。また、なぜLeben に相当する life でなく career に変えたかも考察中] as a clarinettist.

Für Anna war diese Zeit eine schwere Prüfung.
It was a hard time for Anna.[注:Prüfung に相当する英語が訳出されていないが、これは妥当だと思う]

Die junge Ehe durch äußere Umstände getrennt, der vergötterte Mann und Vater des kleinen Kindes in unbekannter Ferne.
The young couple separated by circumstances beyond their control. The husband she worshipped and the young child's father away, goodness knows where.

Im Elternhaus die Mißgunst einer Frauensperson, die alles tat, um den Frieden zwischen Vater Weiß und seiner Tochter zu trüben.
In her father's house, the jealousy of a woman who did everything she could to stir up trouble between old Weiss and his daughter.

Man kann sich denken, daß die noch junge Pianistin, die auch als frühreife Komponistin Aufsehen erregt hatte, Zuflucht in der Musik fand.
One can well imagine the young pianist, who had caused quite a stir with her precious compositions, taking refuge in music. 

Das Kind Ferruccio lebte in einem Spannungsfeld familiären Zwistes und vierfach gebrochener Beziehungen.
Her child, Ferruccio, lived in a tense atmosphere of family quarrels and continually strained relationships.

Es nahm aber auch an dem Trost teil, den die Mutter in den Tönen fand.
But he also shared the comfort that his mother found at the keyboard.[注:なぜTönen の英訳が「音」に相当する tone ではなく「鍵盤」に相当する keyboard と英訳されたのか検討中]

Schon in Paris hatte es spielend Glissandos auf der Klaviatur ausgeführt.
In Paris he had already played around with glissandos.[注:なぜ原文で「鍵盤」に Klaviatur というラテン語が書かれ、英訳では「鍵盤」を表す言葉自体が消えているか検討中]   

Damals, in seinem vierten bis sechsten Lebensjahr, erlebte es die ersten erregenden und rätselhaften Beunruhigungen duech das große hölzerne Möbel, das in einem der mächtigen Zimmer des Großvaters stand und dem man Klänge entlocken konnte, wenn man die Finger auf die weißen Tasten legte.
It was during this period, between the time he was four and six, that he first felt excited and, at the same time, peculiarly disquieted by the large wooden piece of furniture that stood in one of his grandfather's enormous rooms, and from which one could entire sounds simply by touching the white key.   

Langsam wurde der kleine Ferruccio mit dem geheimnisvollen Mechanismus vertraut.
Slowly little Ferruccio became familiar with the mysterious mechanism.  

Eines Tages spielte er zum Erstaunen der Mutter nach dem Gehör Melodien vor.
One day, to his mother's astonishment, he was playing melodies by ear.
[感想:このあたりには、モーツァルトにも似た、ブゾーニの天才少年ぶりが現われている]

Sie reagierte sofort richtig, unterwies den Jungen, zeigte ihm Fingersätze, ließ ihn Tonleitern üben.
She immediately reacted in the proper way by beginning to teach the boy, showing him fingering and making him practise scales.

   

He gave five concerts in that beautiful old city and one day a most unusual honor was conferred on the fifteen-year-old boy.
Busoni's reputation as a pianist was legendary every where he performed.
There is no other pianist of his generation who could match him in terms of prestige.
But he wasn't a popular performer.
He didn't appeal to the ordinary people in the way that, let us say, Eugen d'Albert, Sergei Rachmaninoff or Ignaz Paderewski could pride themselves on doing.
In March 1882, Busoni was already considered a young genius in Northern Italy.
                                                                

H.H.Stuckenschmidt, Ferruccio Busoni: Zeittafel eines Europäers ( Zürich: Atlantis Verlag, 1967 ).
H.H.Stuckenschmidt. Ferruccio Busoni, Chronicle of a European ( Translated by Sandra Morris, London: Calder & Boyars, 1970 ).

                                                    English adjusted and edited by Akiko Yamada

(Under Construction)                                                            

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2006年7月31日 (月)

男の美学――noblesse oblige


2006年3月24日日本経済新聞(夕刊)第1面「あすへの話題」に、私が尊敬する登山家の田部井淳子さん「チリでの体験」というタイトルで興味深い記事を書いていらっしゃるので、その一部分を以下に掲載します。

チリのガイドのレベルの高さにも驚いた。英仏独スペイン語を話し礼儀正しく料理も上手。高所にも強く技術もある。植物、動物、地質に詳しく冗談も通じる。レストランでは料理に合わせワインも選べ、砂の道の運転もうまい。その上足も長く見た目もいい。 こんな男が日本にいるか

こんな男が日本にいるか」と勢い込んで書いておられる部分を目にして、思わず笑ってしまいました。まず、こんな要素で男性を判断しても良いのだろうか?という疑問があります。語学が苦手でも、手際の良い振る舞いが出来なくても、もっと別の美徳を持っている素晴らしい人たちが日本には大勢いる、と思うからです。百歩譲って田部井さんの挙げた要件を満たす男性を「いい男」の条件と見なした場合、その条件を満たす日本人が、過去にも現在にも存在します。過去の人物では、通商産業省を設立した白洲次郎が有名です。また、現在の人物の中にも、白洲次郎を凌ぐ人物が存在します。『人は見た目が9割』などという本が爆発的に売れているところを見ると、田部井さんのナイス・ルッキング nice looking 好みも、あながち間違ってはいないと思います。また、さすがは田部井さんだけあって「礼儀正しいことが一緒に登っていて心地よい最大の要素だった。これはガイドならず人間が持たなければならない基本だと思った」とポイントを押さえていらっしゃいます。ちなみに、ブゾーニも田部井さんの要件を満たしているタイプの人物です。だから、20世紀の音楽家の中でブゾーニが一番好きなのです。なお、私にとって「経歴」「学歴」は、男性を見る場合のポイントになりません。最近の日本の衆議院議員の言動を見ていると首をひねりたくなることだらけですし、博士の質も玉石混交状態です。素晴らしい博士もいれば、「try」などという最も基本的な英単語の名詞形を「tryal」(正解は「trial」)と書いて「僕は博士後期課程です」と名乗って英語のサイトを作っている(湘南・藤沢の)慶應大学の博士予備軍もいます。後者のような人を排除出来ない大学院入試のシステムを見直さないと、日本の将来が危ぶまれます。とは言え、自分が長年に渡って様々なことを勉強した結果感じることは、物事が出来るか否かは人間の価値に関係ない、ということです。人間の価値は、人間性 humanity にあると思います。上述の如く、現在の日本では、お金と暇があれば議員になれたり、博士号が取れるような傾向にあるので、実力がないのに衆議院議員になったりの博士号を取ったりしている人よりも、諸事情のため水商売をしている子の話を聞く方がずっと勉強になるとさえ思っています。


2006年4月7日日本経済新聞(夕刊)第5面から必要最小限引用しますと、「あえて回顧録は残さない。ことさら個人的な話はしない。ニュースにならないのが最善・・・高潔、温容、謙虚。逸話のないのが逸話・・・」という美学のもとに生きた偉人の記事も出ていて、なるほどと思いました。ブゾーニの美学をそのうち英作文するために、新渡戸稲造の『Bushido: Samurai Ethics and the soul of Japan 武士道』を、ゆっくり読んでいます。ちなみに、2006年4月以降、「国家」「品格」「武士道」について安易に読める本が驚くほど出回っていますが、私はそういうものに触発されてブログを書いているわけではありません。それどころか、極めて重大な問題が30分くらいで読み終えてしまう本に書かれていることに危惧さえ感じます。新渡戸稲造と上述の白洲次郎について興味を持たれた方は、斎藤兆史(よしふみ)著『英語達人列伝』(中公新書、2000年)をお読みください。第Ⅰ章に新渡戸稲造、第Ⅹ章に白洲次郎のことが書かれています。また、第Ⅵ章に野口英世のことが書かれており、私たちが小学生時代には「偉人」として紹介された野口英世に関する著者一流の、非常に興味深い記述があります。

誤解のないように断っておくが、僕は野口英世の学問業績にケチをつけるつもりは毛頭ない。(中略)だが、彼の生き方には後進たちが真似をしてはいけない部分がある。人として守るべき礼節の規範に適わぬ部分がある。彼の生涯を忠実に描こうとする伝記であればとても隠し通すことのできぬ汚点が、その要所要所に点在している。その汚点の多くがきれいに拭い去られている点において、あるいは最初から存在しなかったかのように塗りつぶされている点において、(興味深い事実として)我々のほとんどが小学校でしか読んだことのない野口英世伝は、礼節よりも勤勉を求める時代が作り出した美談なのである。

斎藤兆史『英語達人列伝』(中公新書、2000年、131ページ)

これは、私がルードルフ・フォン・ラバンについて調べれば調べるほど抱かざるを得なかった感想と同じであり、共感を持って読んだ部分です。次に、『Bushido: Samurai Ethics and the soul of Japan 武士道』の中で、noblesse oblige が使われている部分を示します。参照した本が数冊あり、訳も多少私が変えたので、詳しい出典は省略します。

Bu-shi-do means literally Military-Knight-Ways the ways which fighting nobles should observe in their daily life as well as in their vocation; in a word, the " Precepts of Knighthood ", the noblesse oblige of the worrier class.

武士道 は文字通り、武人あるいは騎士の道であり、武士がその職分を果たす時でも、日常生活の言動においても守らなければならない道であって、言い換えれば、武士の掟であり、武士階級という身分に伴う義務である。   

ブゾーニの美学に新渡戸稲造の「武士道」を援用するのは、唐突に思われる方も多いでしょうが、ブゾーニが仏像を蒐集していたことを考えると、あながち荒唐無稽とも言えません。また、ブゾーニの二人の息子のうちの一人は日本人女性と結婚しています。「武士道」と「ブゾーニの美学」を結びつけるキー・ワードとしても noblesse oblige というフランス語を記憶に留めてください。このフランス語は私の「人生の導師」とも言える某大物経済人に教えて頂いたのですが、良い日本語訳がないので、フランス語の辞書を引いてみてください。

ちなみに Ernst Friedrich Schumacher エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー(1911~1977)の『Small is Beautiful : Ecomonics as if People Mattered 』 にも、数箇所 noblesse oblige がキー・ワードとして斜字体で出て来ます。『スモール・イズ・ビューティフル:人間中心の経済学』(講談社学術文庫)という小島慶三さん他の訳を照らし合わせ、どんな文脈で noblesse oblige というキー・ワード(この場合はキー・センテンス)が用いられているか、一箇所だけ示します。以下の訳文で、私には「雅量」という言葉が良く分からなかったので『広辞苑』で引いてみると「広く、おおらかな度量」と説明されていました。 generous の原義は「高貴な生まれの」で、その後「寛大な」という一般的な訳語がつき、小島さんの手にかかると「雅量をもった」となるわけか・・・これは日本語の勉強になる・・・などと感心したりしているので、なかなか先へ進みません。ちなみに、英語の名詞形を動詞的に訳すのは、翻訳の常套手段です。

If we could return to a generous recognition of meta-economic values, our landscapes would become healthy and beautiful again and our people would regain the dignity of man, who knows himself as higher than the animal but never forgets that noblesse oblige.   ( p.93 )

我々が雅量をもって再び超経済的価値を認めるようになれば、土地は再びすこやかに、景観は昔のように美しくなり、人々は動物より高等だという知識とともに、高貴な身分には義務が伴う ことを片時も忘れない者のもつ威厳が回復されるだろう。 (小島慶三訳、152ページ) 

シューマッハーがたびたび寄稿した雑誌『Resurgence』(1966年にイギリスで創刊)から、ドネラ・メドウズ Donella Meadows の記事から最もまとまっている文を一つ、引用します。

Not so fast  そんなに急がないで
Slowing down could be the single most effective action to save the world.
速度を落とすことが、世界を救う唯一の最も有効な行為かも知れない。
[Resurgence 184]

私がブゾーニについて一番興味深いと思っているのは、見た目からして「爽やか」かつ「洗練」されていて、資料にも「非常に女性にもてた」という記述が幾つかあり、おそらくブゾーニにかなりアプローチしたであろう稀代のスキャンダラスな女性舞踊家、イサドラ・ダンカンとモード・アランがブゾーニとの関係においては、スキャンダラスな記録を全く残していないことです。二人とも精神的にはブゾーニに強く魅かれていたことは確かです。ここにブゾーニという人物の、20世紀初頭の芸術家には珍しい「品性」「見識」を感じます。とりあえず、「武士道」に書かれているキーワードと思しき項目の一部に関して、原語と須賀徳平さんの訳を併記します。

Rectitude or Justice (義または正義)
Courage, the Spirit of Daring and Bearing (勇気・敢為堅忍の精神)
Benevolence, the Feeling of Distress (仁・惻隠の心)
Politeness (礼儀)
Veracity and Sincerity (真実および誠実)
Honour (名誉)
The Duty of Loyalty (忠義)
Self-Control (克己)

最初に出て来る Rectitude という「語」の概念をイギリス人の知的レヴェルの高い方にお伺いしたところ、Rec-titude と分けてみて、Rec はCorrecct (正しい) titude は Atitude (態度)から来ていて、Rectitude は大雑把に言うと 「正しい態度」になるそうです。これを 『American Heritage Concise Dictionary 』で確認すると Moral uprightness と説明されており、英和辞典を見ると「正直」という訳が最初に出て来ますが、これを須賀徳平さんは「」と訳していらっしゃいます。まだ私の読みが浅いうちは、上述したキーワードを記すに留めます。『週刊新潮2006年3月30日号88ページ「週刊新潮掲示板」に、京大経済研究所所長の佐和隆光さんが新渡戸稲造の「武士道」と noblesse oblige について述べておいでですので、ご一読ください。なお、私はしばらくこの言葉の「日本語読み」に悩んでいましたが、この言葉の「日本語読み」を、フランス語の大家・宇佐美斉先生に教えて頂きました。(宇佐美先生、ありがとうございました。)正しくは「ノブレス・オブリージュ」だそうです。

こういうことを書いていると、私がまるで国粋主義者のように見えますが、事実は逆です。私の父親は、今や絶滅危惧種となった左翼でした。「社会党」と密接に関わったおかげで、高校も大学も除籍という憂き目に会いながら、「社会党」のやり手(real go-getter)代議士さんたちの引き立てにより、「某企業の事務屋」から「某企業の管理屋」という表面的には穏やかな人生をまっとう出来ました。「社会党」と「某企業」の不思議な関係は、私にも理解出来ません。元代議士さんたちのほとんどはずっと以前に亡くなられ、父もおととしに故人となったため、現在の日本の右傾化を見ないで済み、彼らにとってはかえって幸せだったでしょう。父親はカール・マルクス(Karl H.Marx)の『資本論』だけでなく、ドイツ系の様々な思想をかじりつつ、物事の本質に到達出来ないまま、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊したり、朝鮮総連の人に騙されたりしたため、すっかり無口な人間になり、囲碁と酒以外には何も興味を示さなくなりました。私は今年の1月から「東洋哲学を勉強中」というところです。最近の某オピニオン誌を読むと、本多勝一さんに対するバッシングが行なわれているため、私は何となく複雑な気分です。今や、左寄りの人は叩かれ放題なのでしょうか?

男の美学が現われている日本の演劇:歌舞伎に関して少し言及します。私の母親はかつて、15代目片岡仁左衛門(本名 片岡孝夫)の熱心なファンでした。「仁左衛門のファン」という書き方をすると、いかにも高尚な女性のように誤解されそうなので補足しますが、歌舞伎に対する造詣が深いわけではありません。最近の韓国俳優ペ・ヨンジュンを追いかけるオバサンたちと似たようなものです。客観的に見て、片岡孝夫氏が「三男」であるにもかかわらず15代目片岡仁左衛門を襲名したということは、彼が相当な業績を積んだ至芸の持ち主であるということになるので、ほとんど教養のない母親の「審美眼」もあながちバカにしたものではなかった・・・と思うことにしています。私自身は、5代目坂東玉三郎が女性以上に美しいという理由から、片岡孝夫が坂東玉三郎と共演しているプログラムは何回か見ました。しかし、BGMが全て同じに聴こえるので飽きてしまって、まだ歌舞伎の良さは分かりません。それどころか女形の役者さんがなぜ猫背なのか理解出来ません。バレエ・ダンサーだったミハイル・ニコラエヴィッチ・バリシニコフ(英語綴り:Mikhail Nikolaevich Barzshnikov 1948~ )が足袋を注文して日本的な踊りを踊ったことがあるくらいですから、歌舞伎の役者さんもバレエを習ったら猫背が治るのではないか、と思ったりもしています。ただ、「勧進帳」は片岡孝夫が武蔵坊弁慶として出ていたのがきっかけで見るようになり、とても興味を持ちました。他の人たちが弁慶を演じたものも見ましたが、母親のDNAが半分入っているせいか、弁慶役は圧倒的に片岡孝夫の演技が好きです。弁慶と富樫のやり取りは、今でも情景がありありと脳裏に浮かんで来ます。そこには「男の世界」が非常に良く描かれていて、日本が世界に誇れる最高の演劇だと思います。女には絶対に踏み込めない、何とも形容し難い「男の世界」です。弁慶の方が目立つ役どころですが、富樫の対処は非常に見事であって、「美学」を感じさせられます。しかし、今のところ満足出来る富樫を演じた歌舞伎役者には出会っていません。「勧進帳」のクライマックスと似たシーンは「忠臣蔵」にもあります。こうした場面を一番うまく演じられると思われる人々は、歌舞伎役者ではなく俳優の高橋英樹江守徹だと思います。この二人は、時代劇でも現代劇でも圧倒的な存在感を示していると思います。ただし、私の趣味を言えば、断然橋爪淳(じゅん)さんです。まず、何と言っても圧倒的にノーブルな容姿や知性!また、淳さんの才能の多様性は筆舌に尽くし難いものがあります。しかし、彼の素晴らしさは「通」「玄人」でないと理解出来ないことは既に分かっています。この点はブゾーニと同じです。次に好きなのはショパンこと長谷川初範(はつのり)さんです。長谷川初範さんはテレビドラマ『101回目のプロポーズ』に、死んでしまった恋人でピアニストの真壁役と武田鉄矢さん演じる冴えない婚約者(星野)の上司で恋人に瓜二つの藤井役(二役)として颯爽(さっとう)と画面に登場しました。その時は、私には手の届かない永遠の憧れの人物に藤井役の方を演じる長谷川初範さんが重なって見え、同居人が「自分が真壁そっくりだ」と勝手に思いこんでうぬぼれている隣で、浅野温子になった気分に浸って泣くために、ハンカチを握り締めて毎回観ていました。しかし、最終回にはありきたりの展開になってしまい、いまだに納得出来ていません。最近は、深刻な事件が多すぎるため、筒井康隆原作、深田恭子ちゃん主演の『富豪刑事・デラックス』という「あり得ないコメディ」を観て笑っています。山下真司西岡徳馬夏八木勲など、普段は渋い二枚目として売っている錚々(そうそう)たる俳優陣が脇役として真面目にギャグをやっているため、それも楽しんでいます。

日経ビジネス6月11日号の表紙には「(日本経済)黄金の10年」が始まると書かれ、ハリー・S・デント・ジュニア『バブル再来 The Next Great Bubble Boom』(神田昌典監訳、飯岡美紀訳、ダイヤモンド社)という本が、書店の平積みコーナーの中心に置かれています。また、20年前のようなバブル時代が来るのでしょうか?今回こそは、高見の見物をしようと思います。


2006年6月28日21時からテレビの「ザ・世界仰天ニュース」という番組を見て、制作者の考えていることが私には分からなくました。「男を磨く外国語取得――quotes」の項目で書いたように、私が村上世彰くんを見て思い出した山崎晃嗣氏が、何とホリエモンに類似しているという趣旨の番組が作られていました。その番組によれば「光クラブ事件」が「昭和のライブドア事件」と新聞でも報道されたそうです。しかし、ホリエモンと一緒にされては、山崎氏が浮かばれません。また、かなり無理な配当を提示して客を集め、「どんなに無理をしても投資家に配当を払う」という山崎氏のポリシーは、まさに村上くんのポリシーと同じではないか、とも感じました。さらに、闇金融を懲らしめるための生贄(いけにえ)にされたという点でも、洗練された雰囲気と新しい可能性をちらつかせてお金を集めたという点でも、知性を相手に感じさせたという点でも、山崎氏に似ているのはホリエモンではなく、村上くんだと思いました。ただし、かつて我が家に置いてあった赤い表紙の本『私は偽悪者』の他に山崎氏が書いた、『私は天才であり超人である』という本の存在を私に思い出させてくれたため、この番組には感謝しています。8番目の名前のよく分からない女性に感情移入しつつ、細かいことは棚上げにして、この番組を最後まで見ました。

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2006年6月30日 (金)

主要音楽事典(辞典)に見るブゾーニ

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Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.76. より転載

この項目では、世界の主な音楽事典(事典)に、ブゾーニがどう描かれているかをご紹介します。最初は、フランスで刊行されている音楽事典の日本語版『ラルース世界音楽人名事典 Librairie LAROUSSE』(遠山一行、海老沢敏編集、福武書店、1989)から、Jean Jacques Rouveroux ジャン・ジャック・ルヴルーの書いた記事の一部を抜粋し、明らかな誤訳・誤植・句読点などを訂正・補足しながら以下に記します。この音楽事典の様々な執筆者たちや日本語訳の責任者である遠山一行先生と海老沢敏先生も、信頼に値する優秀な音楽評論家です。『ラルース世界音楽人名事典』は、現在の日本では商業ベースに乗っておらず絶版状態のため、「この素晴らしい事典の再版促す」という個人的な願いも込めています。

Ferruccio Benvenito Busoni ・・・イタリア人のクラリネット奏者を父に、ドイツ人のピアノ奏者を母に持ち、両親から音楽教育、特にピアノの教育を受けた。8歳で最初の演奏会を催し、12歳で自ら作曲した《スタバト・マーテル》の演奏を指揮した。1888年に、バッハのオルガンのためのフーガのピアノ編曲という記念碑的仕事を始めた。1890年には早くもピアニストとしての名声が確立した。ピアニストとしてのスタイルは、ロマン主義的情感といったものよりは壮大な構成の感覚、装飾の感覚により特徴づけられる。1902年から1909年までの間に、12回にわたり同世代の作曲家を取り上げた演奏会を催し、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》のドイツにおける初演を行なったりもした。1911年には、6回の演奏会で、リストの主な作品をすべて演奏した。ブゾーニにとってリストは鍵盤楽器の究極であり、バッハがその出発点であった。この少し後、今度は当時あまり顧みられなかったモーツァルトの協奏曲を聴衆に知らしめた。彼はモーツァルトの協奏曲を興味深く、また冒険的でもあるカデンツァで装飾して聴かせたのである。ブゾーニは名ピアニスト、教授としてさまざまな都市で精力的に活動していた(ヘルシンキ、モスクワ、ボストン、ベルリンで教鞭をとった)が、しだいに活動の中心を作曲に置くようになっていった。

我々は今日ブゾーニを音楽の革新者と考えるが、しかし、彼が革新者の域に達するためには、長い時間が必要であった。初期の曲は、確かに念入りに作られたものではあったが、演奏者が技量を誇示するための部分が多すぎて息苦しいものであった。例えば、終曲の合唱を伴うピアノ協奏曲op.39(1904)がそれである。ブゾーニがその独自な響きを聞かせるようになるためには、オーケストラのための《悲しき子守歌》op.42(1910)を待たなければならない。しかしながら、ラモー以後、まだ自分の主要作品の作曲に身を入れる以前の作曲家が、ブゾーニのように確信をもって、明晰に、しかも簡潔に、自己の作曲理論を表示した例はない。『新音楽美学試論 Entwurf einer neuen Aethetik der Tonkunst 』(1907)は、非常に薄い冊子に過ぎないが、音楽における反慣習主義の立場を明確に表現した立派な論説である。ブゾーニは、この論説の中で、作曲家たちがいつも長調と短調しか使わないこと、ソナタ形式を偏重することなどに異議を唱え、さまざまな革新を提起している。20世紀前半に現われる革新のほとんどすべては彼が提起したものである。例えば、多調音楽、古い旋律の使用、全音階の7音にあらゆるやり方で嬰記号、変記号をつけて得られる不規則な調性の使用、微分音の使用などである。

ここで補足しますと、ブゾーニはピアノを弾きながらいちいち嬰記号、変記号を五線紙に書いて数えたので、数え間違いを引き起こし、本来ならば155通りになるべきところを113通りであると勘違いしています。これを1929年に Wells College の数学者 J.Murray Barbour が「Synthetic Musical Scales 」という論文に順列・組合せの数式を書いて説明しているのですが、音楽学者たちにはその説明が理解出来なかったようで無視され、音楽学の資料には出て来ません。そのため、私がBarbour と同じことを卒業論文で樹形図を描いて説明するという事態になりました。当然、先生方には私の書いた樹形図が理解されないまま終わりました。卒論を提出した後、調べ直した結果 Barbour の論文を数学雑誌から発見したわけです。ということで、「3分音によって113通りの音階を作った」という某日本人女性ブゾーニ研究者の見解は残念ながら誤解です。この「数学的基礎のなさ」が音楽学者の問題点であろう、と私は思っています。

ブゾーニはまた、この冊子の中で、今まで誰も聞いたこともないような音色を出せる「ケーヒル博士のディナモフォーン」がアメリカにあるということを語って、電子音楽さえ提唱している。ブゾーニがこの冊子の中で説いたのは「若々しい古典性」、すなわち「過去のすべての経験と現代のすべての実験」を援用する様式である。このような考えにのっとってブゾーニは、《インディアン幻想曲 Indianische Fantasie》op.44(1913)、《ロマンツァとスケルツォ Romanza e schezoso》op.54(1921)、ピアノのための6つのソナチネ(1910~20)を作曲した。この6曲のソナチネは互いに大変異なっており、さまざまの仕方で大胆な方法が用いられている。容赦ない不協和音の使用や、とっぴな印象を与えるほど次々と続けて繰り出される協和音の使用といった手法もその一つである。

劇場のための作品の分野について、『新音楽美学試論』は、特にこの時代においては、他にまずもってみられない美学を素描してみせた。ここでブゾーニは、歌の非現実性に由来する不都合を、この非現実性をさらに押し進めることで乗り越えようとする。そして、「全く信ずることが出来ないような、本当とはまず思えないような情況や葛藤」の力を借りて、「人工的なもの、自然ならざるもの、超自然的なもの」だけを反映するオペラを作り出そうとした。ホフマン原作の《選ばれた花嫁(『嫁選び』ではセンスが悪いと私は思います) Die Brautwahl》(1911)に次いで、コンメディア・デッラルテのような《アルレッキーノ Arlecchino》(1916)、《トゥーランドット Turandot》(1917、原作カルロ・ゴッツィ Carlo Gozzi )が作曲されるのは、こうした理由によるのである。《トゥーランドット》は《千夜一夜物語》や人形劇にも発想を借りている。《アルレッキーノ》では主役は台詞のみの役であり、劇自体は他のオペラのパロディとなっていて複雑である。

ダンサーであった私が観たオペラ《アルレッキーノ》について補足しますと、男の主役は踊りの心得がある俳優が起用され、女の主役は言葉を全く発しないダンサーが起用されて、抜群の効果を上げていました。

「劇による奇想曲」である《アルレッキーノ》は、12音を使ったファンファーレで幕を開けるが、これはシェーンベルクが12音技法(原訳では12音階音楽となっていますが、これは12音技法のことです)の書法体系を確立する数年前のことであった。《ファウスト博士 Doktor Faust》(1925)について言えば、この作品はある意味で、モーツァルトの《魔笛》に比べることが出来る。両方とも哲学と形而上学に彩られた絵画的な劇だからである。

1910年から死に至るまで、ブゾーニはドビュッシーにもワーグナーにも負うところがない探究をしている、ただ一人の現代主義的作曲家であった。彼は当初、晩年のベートーヴェンの作風に近いところから出発し、ベルリオーズを経て、リストに近づくことでイタリア化した。誰とも分かつことのないこの伝統に、常に貪欲な好奇心に満ちた精神に由来する探究や気まぐれが付け加わる。彼の弟子たちのうちに、互いに非常に異なる音楽家の姿が認められることは意味深い。クルト・ヴァイル、エドガー・ヴァレーズ、また音楽史の主流からはずれたが注目すべき音楽家であるアーサー・ルリエ、フィリップ・ヤルナッハである。ヤルナッハは《ファウスト博士》のオーケストレーションを行ない、この作品の最後の数ページを完成した(1906年に着手)。

このヤルナッハ版を物足りなく思い、自らの自由時間をすべてブゾーニ研究に捧げ、《ファウスト博士 Doktor Faust》の補筆を行ない、後世に残すべき名著『Busoni, the Composer 』を執筆したのが、ドレスデンの指揮者アントニー・ボーモント Antony Beaumont です。

ブゾーニの作品の主なものは次の通りである。まず、既に挙げた4つのオペラ。ブゾーニ自身が台本作者でもある。次に、約12曲のオーケストラのための作品。ピアノとオーケストラのためのいくつかの作品がある。他には、ヴァイオリン協奏曲op.35(1897)、クラリネット協奏曲(1919)、フルートとオーケストラのためのディヴェルティメントop.52(1920)、いくつかのカンタータと合唱曲、歌曲、室内楽曲(2つの弦楽四重奏曲、ピアノとチェロのためのいくつかの作品など)、数多くのピアノ曲がある。ピアノ曲の中にはバッハの《フーガの技法》の中の未完成のフーガによる《対位法的幻想曲 Fantasia contrappuntistica》の4つの版が含まれている。また、バッハの作品をピアノ用に編曲したものは7巻にも及び、ベートーヴェン、ブラームス、リストなどの作品のピアノ曲への編曲も手がけていること、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト(私による付加)の協奏曲のためのカデンツァを書いていることも付け加えておかなければならない。

次に記すのは、非常に優れた日本人音楽学者の一人である庄野進先生の手による、ブゾーニの記事『音楽大事典・第4巻』(平凡社、1982年、2108~2109ページ)です。庄野先生の誤解を指摘し、読み難い記述を[かっこ]で訂正・補足しながら、なるべく庄野先生の記述を忠実に再現します。

ブゾーニ Ferruccio ( Dante Michelangiolo Benvenuto ) Busoni 1866.4.1 エンポリ~1924.7.27 ベルリン

イタリア生れのピアノ奏者・作曲家。クラリネット奏者の父、ドイツ系ピアノ奏者の母の手ほどきを受け、7歳で楽壇にデビューして、A.ルビンシテイン[←ルビンシュタイン?]を驚かせ、ウィーンでの演奏会でハンスリックの絶賛を浴びた。1876年一家でグラーツに移住し、マイヤー Wilhelm Mayer に作曲を師事。12歳のときには自作のスタバト・マーテルを指揮、発表している。このころの作品はすでに卓越した形式感を示しているが、ウィーンに移りブラームスと知り合うことでさらに磨かれた。

[18]86年ブラームスの勧めでライプツィヒに移った彼は、チャイコフスキー、マーラーらを知り、しだいに作曲活動に専念。それと並行して[18]88年にはブゾーニ版として知られることになるバッハのクラヴィア作品の校訂・編曲を始めている。また教職を求めてヘルシンキ(1889)、モスクワ(1890)、ボストン(1891~94)へ赴く。[18]90年ピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(Op.31a)でルビンシテイン[→ルビンシュタイン?]賞を受賞。なおこのころ、独自な作風を自覚しはじめた彼は以前の曲を破棄、新しい作品番号を用いはじめる。そのため、彼の作品番号にはやや混乱があり、また晩年の数曲には作品番号がない。

[18]94年ヨーロッパに戻り、ベルリンに居を定め、以後、第1次世界大戦中のチューリヒ滞在の時期を除いて、同地を中心におもに作曲者、指揮者として活躍。1902年からはベルリンで現代的な管弦楽曲のための演奏会を開き、バルトーク、ディリアス、シベリウスおよび自作の初演を行うなど、「新音楽」の旗手と目されるようになる。しかしピアノ協奏曲Op.39(1903~04)等に見られる彼自身の作風は、いまだ後期ロマン派、とくにリストの影響を色濃く残していた。またウィーン音楽院ピアノ科マイスター・クラス教授(1907~08)、ボローニャ音楽学校校長(1913~14)を務め、のち20年にベルリン芸術アカデミー作曲科マイスター・クラス教授に就任。

ブゾーニ自身認めているが、1907年に一大転機が訪れる。とくに同年に作曲されたピアノ作品〈エレジー集 Elesien〉のように、印象主義や表現主義などの19世紀末から20世紀初頭の革新的な様式をも採り入れた独自の音響世界が形成されていく。これを裏づけているのが、同年に出版された著作〈新音楽美学試論 Ästhetik der Tonkunst〉である。そこでは、ヴァーグナーに至るロマン派の標題音楽的傾向に対する明確な批判、機能和声的な音進行を固守しようとする「絶対音楽」の硬直した形式主義の否定、革新的な試みを総合する新しい形式の探求という立場が打ち出され、実現はみなかったものの1/3音を単位とした微分音による新しい音組織さえ提唱されている。また晩年の中心的ジャンルとなるオペラに関しても、登場人物の心理面での動きと音楽が密接に結びつくような新しい形式が必要なことが強調された。

他の項目で私が既に述べた如く、ブゾーニは1/3を単位とした微分音による新しい音組織を作ってはいません。「113のスカラ」を「3分音」の記事の前に記述しているため、日本の音楽学者が誤解しているだけです。ブゾーニに関する様々な誤解のうち、極めて初歩的なこの誤解だけでも、私が生きているうちに解決して差し上げたいと常々思っているところです。

こうした主張はのちにフィッツナー(←プフィッナー)の反論を招き、ブゾーニはP.(←パウル)ベッカーと共同でこれに対抗することになるが(論文集〈Von der Einheit der Musik〉1922参照)、その過程で古典的作曲家たちの活動に範をとった「新しい古典性」「若々しい古典性」 junge Klassizität という精神的態度に基づき、確固とした美しい形式の実現、ポリフォニー的な旋律の再確立などが主張されていった。

作品に関しては、ピアノのためのソナチネ第2番(1912)における半音階的旋律、拡大された調性、拍節構造を廃棄したリズムに見られる大胆な試みと、同第4番(1917)のバッハ作品を想起させるポリフォニーの古典性などが錯綜している。オペラでは、古いイタリア即興劇コンメディア・デッラルテに範をとった〈アルレッキーノ Arlecchino, oder die Fenster〉Op.50(1914~16、チューリッヒ初演1917)等に彼の理念が反映されているが、未完の大作〈ファウスト博士 Doktor Faust〉(1916~)では、現実的描写と幻想的ファンタジーの織りなす独特の世界がつくり出されている。この曲は死後、親友ヤルナッハが補筆し、[19]25年ドレスデンで初演された。ブゾーニの評伝としてはデントによるもの(1933)等がある。

【主要作品】上記のほか、
オペラ:〈嫁選び[←女性の意見としてはせめて「花嫁選び」にして欲しい] Die Brautwahl〉(1908~10、初演1912)、〈トゥランドット[←トゥーランドットが一般的] Turandot〉(1917、初演同年)。
管弦楽曲:交響組曲Op.25(1888)、第2管弦楽組曲Op.34a (1895)、〈[花]嫁選び組曲〉Op.45(1917)、交響詩Op.32a(1893)、〈喜劇序曲 Lustspielouvertüre〉Op.38(1897)、〈悲しき子守歌 Berceuse elegiaque ←アクサンが出ないことをご容赦ください〉Op.42(1909)、〈交響的夜想曲 Nocturne symphonique〉Op.43(1912)、〈アルレッキーノのロンド Rondo arlecchiesco〉Op.46(1915)、〈インディアン日誌 Indianisches Tagebuch〉第2巻Op.47(1915)、ワルツ Tanzwalzer Op.53(1920)。
ピアノと管弦楽の曲:ピアノ協奏曲(男声合唱付き)Op.39(1903~04)、〈インディアン幻想曲 Indianische Fantasie〉Op.44(1913)、ロマンツァとスケルツォ Op.54(1921)。
他の独奏楽器と管弦楽の曲:ヴァイオリン協奏曲 Op.35a (1896~97)、クラリネット小協奏曲 Op.48(1918)、フルートと管弦楽のためのディヴェルティメント Op.52(1922)。
室内楽曲:弦楽4重奏曲第1番 Op.19(1880~81)、第2番 Op.26(1889)、ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番 Op.29(1890)、同第2番 Op.36a (1898)、同バガテル Op.28(1888)、チェロとピアノのための小組曲 Op.23(1886)、同じくセレナータ Op.34(ca.1882)、フルートまたは弱音器付きヴァイオリンとピアノのためのアルバムブラット(1917)、クラリネットとピアノのためのエレジー(1921)。
ピアノ曲:〈幼きものに[←「青春に寄す」が一般的] An die Jugend〉〈クリスマスの夜に Nuit de Noël〉(ともに1909出版)、〈インディアン日誌〉第1巻(1915)、3つのアルバムブラット(1917~21)、トッカータ(1921)、〈ショパンのハ短調前奏曲による10の変奏曲〉(1922)、〈J.S.バッハによる幻想曲(1909)、〈Fantasia contrappuntistica(←ママ:普通は対位法的幻想曲と訳されるされる)〉(3版ある。1910~12)。
4手用ピアノ曲:〈フィンランドの民謡 Finnländische Volksweisen〉Op.27(1889出版)、2台のピアノのための〈Fantasia contrappuntistica〉(1922出版)。
その他:オルガンのための前奏曲とフーガ Op.7(1881)、管弦楽伴奏の合唱曲〈四季 Primavera, estate, autunno, inverno〉Op.40(1882)、管弦楽伴奏の歌曲〈アヴェ・マリア〉Op.35(1882)などのほかピアノ伴奏の歌曲多数。モーツァルト、ベートーヴェン、リスト、ヴァーグナー、シェーンベルクらの作品の改作・編曲もある。

平凡社『音楽大事典』にブゾーニの項目が書かれているページに、ブゾーニの著作の翻訳者二見孝平の項目もあるので、参考のために書いておきます。

二見孝平(ふたみ・こうへい)1885(明治18).9.14小田原~1970(昭和45).5.27同地
音楽評論家・著述家。東京大学文学部で英文学を専攻し、1914年(大正3)卒業。[19]16年太田黒元雄の主宰した〈音楽と文学〉の同人となって同誌に寄稿、音楽評論の筆をとる。[19]19年外務省に入り、[19]22年ベルリン、[19]24年ローマに赴き、[19]27年(昭和2)帰国。[19]29~34年ハンブルク総領事館在勤。この間、音楽の研究に努める。ドイツ、フランス、イタリアの音楽に造詣が深い。訳書にブゾーニの〈新音楽美学論〉(1929)と〈アンナ・パブロヴァ〉(1922)、訳歌詞にマスネの〈エレジー(悲歌)〉、ヴォルフの〈隠棲〉、グリーグの〈ソルヴェイグの歌〉などがある。
[『音楽大事典』第4巻、平凡社、1982年、2109ページ]

 

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2006年5月31日 (水)

1980~90年代の思い出と残滓――pour mémoire

CDと重複しているLPや一旦は気に入ったものの飽きてしまったLPをブック・オフ BOOK OFF へ売るため、自室を徹底的に整理した結果、1970~80年代のダンス・ミュージックを中心にLPが約400枚あることが判明しました。ブラック・コンテンポラリーからクラシカルなLPまで、32タイトルは、私の一生の財産なので、別に保存してあります。それ以外のLP類は一度、中古レコード屋さんに送って、ジャズを中心に値の付いたものは全て売り払いました。送り返されたLP400枚をBOOK OFF に出したわけです。係の男の子がダンボール6箱に詰めて持って行き、その日のうちに電話で値段を教えてくれました。案の定、約4000円でした。一枚10円程度で持って行かれたことになりますが、他の店では返却されたLPなので、結構満足しています。

六本木や新宿で手広くディスコを所有・経営していらっしゃった、今は亡き池内のおばちゃんに憧れて、私は1988年頃、かなり真剣にディスコ(今で言うところの「クラブ」)を経営しようとしていました。30歳になるまでに、店で流す音楽や内装などはもちろん、「どんな男性スタッフを揃えれば望ましいお客様たちに来て頂けるか」ということを特に研究しました。その影響で、20歳代の美しげな男の子を見ても「この子は使える・使えない」という経営者的な目で見てしまい、恋愛感情を持つことはあり得ません。結局ディスコは経営しませんでしたが、レストランの経営には関与していたため、20歳代の美しげな男の子たちに接していました。

池内のおばちゃんの存在がなければ、私の人生は極めて平坦なものであったことでしょう。ただ、目をかけて頂いたにもかかわらず、私は彼女が大阪出身で、笹沢某氏の小説のモデルにもなられたことしか知りません。外国の文化学問に対する彼女の憧れは強烈であり、彼女の所有するディスコには、彼女の旅行した諸外国の名所・旧跡などの名前が付けられていました。1980年代に私が頂いた様々なディスコの無期限フリーパスの招待券を知人にあげてしまい、手元には彼女の弟さんが社長を務めておられたネペンタ(スクウェアビル)の外人用 Invitation Card 一枚しか残っていないため、遊ばせて貰ったディスコのうち、名前を思い出せるお店だけでも備忘のために書き残しておきます。

私の仕事場であった「スクウェアビル」に入っていたディスコは、ファーマーズ・マーケット、トプカピ、チャクラ・マンダラ、スタジオ・ワン、ネペンタ、フーフー、キワニスなど。六本木にあるその他のビルのディスコは、エムバシー、キサナドゥ、マハラジャなど。新宿のディスコは、サーカス・サーカス、ハロー・ホリデー、ツバキハウス、シャンバラ、○○(←もう忘れている)・ギリシャ館、○○・ペルシャ館など。赤坂のディスコはムゲン、ビブロスなど(赤坂の店に関しては、世界的に有名な某教育研究所の大株主兼大先生の卓越した記憶力のおかげで思い出しました。感謝しております。)ブラック・コンテンポラリー・ミュージックへの愛着に比べて、クラシカルな音楽への愛着を私はさほど持っていなかったらしく、クラシカルな音楽のLPはストラヴィンスキーの『ぺトルーシュカ』(佐野光司先生解説)やブゾーニ関係のLPが聴ける程度で、あとは聴けないほど老朽化したものばかりです。1997年からは研究のためにブゾーニのCDを購入しただけで、他の20世紀のクラシカルな作曲家のCDは購入していません。日本人のものは、教育用の童謡しか購入していません。日本人作曲家の器楽曲としては坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』しか聴く気がしません。この曲は、バブル時代にあちこちの高級クラブ、レストランなどで弾き、チップを稼がせて頂いた懐かしい名曲です。大変な努力を続けておられる現在の日本の作曲家の方々にはお気の毒ですが、坂本龍一以外の人の作った曲は、現場では使い物になりません。私は、ラウンジピアニストをしていた時には必要に迫られて、その後しばらくは「趣味・能力開発」として「和声学」と「対位法」を学びました。確かに、「和声学」や「対位法」の課題を解いていると、普段使わない脳の或る部分が使われて活性化します。頭が良くなったような、能力が開発されたような気がしました。現実に、頭が悪くては作曲は出来ないとも感じました。この先が問題なのですが、日本人が「和声学」や「対位法」を学んで「作曲科」を卒業したという理由で作曲しても、あまり良い曲は出来ないようです。お気の毒ですが、そういう方々は「能力開発をした」と思って諦めて頂いた方が良いと思います。私が師事していた山口博史先生は、作曲もなさっていましたが、「作曲法の教師」「ソルフェージュの教師」という仕事に情熱を注いでいらっしゃいました。作曲科出身者の中には、何となくあくせくしている先生も多く見られました。それを見ていて、「せっかく頭が良いのだからソニー大賀さんのようにビジネスの世界で生きてはいかがなものか」と思いました。藝大にも「一般社会で活躍出来そうな非常勤講師の先生」がいらっしゃったので、当時、コンピュータ関係のベンチャー・ビジネスをしていた知人にご紹介しようと余計なお節介を試みましたが、繊細すぎる方だということが分かったので諦めました。しばらくして、その非常勤講師の先生は、3段階特進という状態で「教授」に就任されたので、妙に納得するとともに安心しました。

部屋のCDに話を戻します。銀座でピアノを弾いている時のレパートリーをCD化してもらったものも見つかりました。ちなみに私がレパートリーにしていたベスト10を挙げると ①A Night in Tunisia  ②Sukiyaki ③Mais Que Nada ④ Night Birds ⑤Savoir Faire ⑥I Want Your Love ⑦Shine on Silver Moon ⑧He is the Greatest Dancer ⑨God to be Real  ⑩Still ですが、一番好きなのは⑨God to be Real (敢えて訳せば、「本物の神」)です。大学時代に売れないモデルをやっていた時、この曲で上手く踊ったため、池内のおばちゃんが関与していない六本木のディスコ数件からも永久かつ・何曜日のどの時間でも只で入店出来るInvitation Card を頂きました。ともかく、これらのカードは当時、非常に助かりました。本来ならば自炊しなければならない貧乏学生の身だったのですが、家庭教師・モデル・ディスコでのアルバイトが忙しくて、全く自炊する心の余裕も腕もなく、「毎日深夜に、ディスコで一日分の食事を取る」という信じられない生活をしていました。今にして思えば、大学の寮でおとなしく生活していれば、アルバイトの必要はなかったのですが、当時はそうする心理状態ではなかったようです。いずれにしても昔のことで、『マハラジャ』の開店に「サクラ」として招待されたのが東京のディスコへ行った最後です。

自宅の事務所兼書斎で良く流す曲は、Earth Wind & Fire の The Very Best of Earth Wind & FireというCDに入っている曲です。中でも、スキャットが中心の《BRAZILLIAN RHYME ブラジルの余韻》が一番好きです。これらの曲に合わせて、ものすごくゆっくりと、バレエのポー・ド・ブラ(腕を動かす練習)と両手バーのレッスン(両手でバーをしっかり握って背中の筋肉を意識しながら脚をゆっくり動かす練習)や片手バーのレッスン(片手でバーを持ち、もう一方の手は丸みを持たせて横に充分伸ばし、同様にゆっくりと脚を動かす練習)や床を使ったストレッチなどをしています。ともかく、日本で行なわれているボディ・トレーニングは、行なう速度が速すぎて身体に全然効いていません。機会があればいろいろな方に、私がどれくらいのゆっくりさ加減で身体を動かしているかをご覧頂きたいと思います。

小学館の『Can Cam』という雑誌が、最近非常に立派な装丁になり、一流のモデルを使い、26年前には圧倒的に優勢だった『JJ』よりもメジャーになっているようです。出版社がお金をかけられなかった創生期に、大した審査もなくほとんどノーギャラで不細工な姿をさらしていた自分が、不思議な体験をさせて頂いたものだ、と懐かしくなりました。今の『Can Cam』は分厚くてきらきらした雑誌に見えますが、創刊当時はギャラがほとんどなく、タヒチ島やニュージーランド島までの交通費と滞在費、多少のお小遣いと現物支給くらいで済まされました。今や「読者モデル」のオーディションに3500人もの女の子が集まり、誰も合格者も出ないとは、信じ難い時代の変化です。

1990年の初頭は、ニューヨークとシカゴへ某企業の経費で行ける機会があったため、「経済学」や「会計学」が分からないとは言わずに隠れて猛勉強し、何とか仕事をやり遂げたことがあります。その後、国際会計検定(Bookkeeping and  Accounting Test for International Communication)が始まった当初、検定を受けようとしましたが、難しくて自分の顔に縦皺(たてじわ)が出来るので、受験を諦めました。こんな難しいことに関わっていたのが夢のようなので、その頃にメモしたノートから備忘録として目ぼしい言葉を挙げておきます。日本語の定訳を私が勘違いしているかも知れませんので、その場合はご指摘ください。ちなみに accounting は、「相手に伝わるように正しく説明する」、accountability は「説明責任」とノートに書かれていますが、これらが正しいか否か迷っています。

会計では、経済の現実が一般的な用語(common word)によって表現されると同時に、そこに特殊な意味(special meaning)が付与される。
簿記係(bookkeeper=a person whose job is to keep an accurate record of the accounts of a business)
会計係(accountant=a person whose jod is to keep or check financial accounts)
会計責任者(accounting manage)
検査人(controller=a person who manages or directs sth. especially a large organization or part of an oganization)
勘定(account) 会計の構造(accounting structure)
会計上の変更及び誤謬の訂正(accounting changes & corrections of errors)
会計概念(accounting concepts) リース会計(accounting for leases)
年金会計(accounting for pensions) 会計公準(accounting postulates)
勘定科目(accounts) 売掛債権(accounts receivable)
発生主義(accural basis) 発生主義会計(accural basis accounting)
発生原則(accural principle) 決算修正仕訳(adjusting and closing entries)
包括主義(all-inclusive concept)
取得原価(aquisition cost) 活動原価計算(activity based costing)
達成可能良好水準(attainable good performance level)
バランス・スコアカード(balanced scorecard)
貸借対照法(balance sheet) 簿記(bookkeeping)
損益分岐点分析(break-even point analysis) 予算管理(budgetary control)
企業結合(business combinations) 企業実体(business entity)
現金預金(cash) 現金主義(cash basis)
現金主義会計(cash basis accounting)
キャッシュ・フロー計算書(cash-flow statement)
出金取引(cash payment transactions) 入金取引(cash receipt transactions)
決算(closing) コラムナー現金出納帳(columnar cash book)
コミッテッド・キャパシティ・コスト(commited capacity cost)
工事完成基準(completed contract method)
連結財務諸表(consolidated financial statements)
貢献差益(contribution margin) 総括勘定(controlling accounts)
コスト・ドライヴァー(cost drivers) 原価対象(cost objectives)
低価基準(cost of market, whichever is lower) 売上原価(cost of sales)
CVP関係:原価―売上―利益の関係(cost-volume-profit relationship)
流動資産(current assets)
当期業績主義(current operating performance concept)
日記帳(daybook) 借方と貸方(debits and credits)
繰延資産(deferred assets) 繰延税金(deferred incomes taxes)
デリヴァティヴ(derivatives) 差額原価(differential cost)
直接費(direct cost) ディスクロージャー制度(disclosure system)
複式記入(double entry) 複式簿記(double entry bookkeeping) 
持分(equity) 費用(expense) 費消(expiration)
注記(explanatory notes)
財務報告と会計基準(financial accounting & reporting)
財務会計(financial accounting) 財務状態(financial position)
財務諸表(financial statements) 資金調達(financing)
先入先出法(first-in, first-out method; fifo)
固定資産(fixed assets) 固定費(fixed cost)
FMS:フレクシブル・マニュファクチュアリング・システム
(Flexible Manufacturing Systems)
暖廉(good-will) GDE:国内総支出(Gross Domestic Expenditure)
GDP:国内総生産(Gross Domestic Product)
GNP:国民総生産(Gross National Product)
間接費(indirect cost) 割賦基準(installment method)
無形固定資産(intangible assets) 内部統制(internal control)
利子付手形(interest bearing notes) 中間財務報告(interim financial reporting)
内部利子率法(internal rate of return method)
棚卸資産(inventories) 資金投下(investing) 投資(investments)
仕訳帳(journal) 仕訳(journalizing) 後入先出法(last-in, first-out method; lifo)
元帳(ledger) 負債(liabillties)   損失(loss)
マネッジド・キャパシティ・コスト(Managed Capacity Cost)
管理会計(management accounting)   数値による管理(management by numbers)
写像(mapping) 限界利益(marginal income, marginal profit)
貨幣的測定(monetary measurement)   移動平均法(moving average method)
手形(notes)  1年基準(one year rule)
継続企業の公準(ongoing concern)   
営業活動(operating) 営業循環基準(operating cycle basis)
営業成績(operating performance) 現金支出原価(out of pocket cost)
工事進行基準(percentage of completion method)
業績管理(performance evaluation) 小口現金出納帳(petty cash book)
転記(posting) 試算表の作成(preparation of the trial balance)
費用収益対応の原則(principle of matching expenses with revenues)
利益(profit) 損益計算書(profit and loss statement) 個別計画(project plans)
有形資産及び減価償却(property, plant & equipment, depreciation)
仕入取引(purchase transactions)
当座資金(quick assets) 実現原則(realization principle)
日本式財務諸表の米国基準による組み換え
(recasting japanese financial statements based  upon U.S.GAAP)
取引の記帳(recording financial transactins) 返金(returns)
関連原価(relevance cost) 収益(revenue) 収益認識(revenue recognition)
割引(sales discount) 売上取引(sales transactions)
売掛金明細及び買掛金明細(schedule of accounts receivable and accounts payable)
セグメント情報(segment information) 用役潜在力(service potential) 
個別法(specific cost method)  科学的管理法(specific management)
キャッシュフロー計算書(statement of cash flows)
株主持分(stockholders' equity) 後発事象(subsequent event)
埋没原価(sunk cost) 附属明細票(supporting schedule)
厳格度(tightness) 時間基準(time basis) 時間価値(time value of money)
取引(transaction) 内部振替価格(transfer prices)
外貨建財務諸表の換算(translation of foreign currency financial statements)
試算表(trial balance) 変動費(variable cost)
冒険商業(venture) 営業量(volume)
ヴァウチャーシステム(voucher system) 清算表(working sheet)

             (Under Construction 工事中)

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2006年4月30日 (日)

ボーモント著『Busoni, the Composer』より

(注)これは、Antony Beaumont. Busoni, the Composer(London: Faber, 1985).を、2001年度提出の東京藝術大学音楽学部楽理科卒業論文の付録とするために、試訳したものの一部分です。

序文
 エドワード・デントがブゾーニの素晴らしい伝記を1933年に出版した時、彼はこの作曲家の作品についての詳細を何も書こうとしなかった。作品を「いやしくも適切に扱うならば、・・・広範な音楽的実例を伴い、専門的な様式で書かれた第2巻目を必要としただろう」と説明して。私は最初、本書がまさにその役割を果たすと思い描いた――そして概ね、その通りである。1970年に私は、ベルリン、ケンブリッジ、ワシントン、ヴィンタートゥーア、チューリッヒなどに存在する、数え切れない手稿、新聞や雑誌の切り抜き、未出版の資料を調べ、全体の形式と規模を計画して、仕事に取りかかった。
 ブゾーニの文学的関心は私にとって、特別重要であった。彼の手紙や日記で言及されている本、あるいは台本の原典資料をいくつか参照することによって、文学の世界が作曲家としての彼の作品においていかに支配的な役割を果たしているか、ということが次第に分かって来た。
 つまり彼の作品の多くが、器楽作品でさえ、彼の読んだものに直接触発されていることが発見された。当然このことは、新しい光を音楽の上にしばしば投げかけている。ここで私は、自分がデントとは別の方法を取り、スコアの専門的な側面を考察することに加えて、スコアを文学的・文献学的角度から吟味していることに気づいた。このような分析は時として主観的なことがあり、デントは自作におけるどの言明も「明確な証拠と関係づけられる」と主張出来たのだが、私は必ずしもそう主張するつもりはない。しかし、専門的なデータが提供し得るよりも完全な、作曲家としてのブゾーニの肖像は「明らかな証拠」からのみ立ち現われる。
 ブゾーニが作曲家としては、まだ良く知られていないので、彼の成熟した作品に対して基本的な導入を準備することが、不可欠であると思われた。本書はそれゆえ、音楽構造の詳しい分析よりもむしろ、音楽構造の概略、あるいは方向づけを提供する。しかし、決定的と見なされるようなものではない。本書には、膨大な量の事実情報が付加されている。つまり、本書で論じられた作品の楽譜、及び各作品の(およその)演奏時間に加えて、知られている限りの初演の詳細と手稿の所在が提供されている。ブゾーニの作品の完全な目録も含まれている。言い換えれば、カタログ化された314作品のうち、私は58作品だけを論じた。ブゾーニを良く理解するようになった一般の人々が、いつの日か、他の作品についての巻を要求するということが、私のたわいもない望みである
 統一性を保つために、他の版が既に存在する場合でさえ、私は大部分の翻訳をドイツ語、フランス語、イタリア語から自分で行なった。他人による翻訳は、それらが出てくるたびに、脚注で知らせてある。

(中略)

年表
1866 4月1日にエンポーリで生まれる。
1873 作曲を始める。ピアニストとして初めて公開演奏する。
1875 ヴィーンへ移転し、音楽院に入学する。
1877 リストの演奏を聴き、彼に紹介される。
1878 グラーツへ移転し、その後クラーゲンフルトヘ移転する。
1879 ヴィルヘルム・マイヤー=レミーのもとで作曲を学ぶ。
1881 グラーツでの勉強を修了する。作曲とピアノ演奏のディプロマをボローニャのアカデミ               ア・フィラルモニカから授与される。
1883 《村の土曜日》をボローニャで初演する。ヴィーンへ戻る。
1885 ライプツィッヒとベルリンを初めて訪れる。
1886 オペラ《ジグーネ》に取り組み始める。ライプツィッヒに居を構える。絶えずコンサート・                ピアニストとしての活動を広げる。
1888 ヘルシンキ音楽院でピアノ教師の職を得る。
1890 ケルダ・ショーストランドとモスクワで結婚する。作曲でルビンシュタイン賞を獲得し、                  モスクワ音楽院で教師の職を得る。
1891 ボストンへ移転し、ニューイングランド音楽院で教える。
1892 第一子ベンベヌートが誕生する。教職を辞め、ニューヨークへ移転する。
1894 ヨーロッパへ戻り、ベルリンに居を構える。ヴィルティオーゾ・ピアニストとして成功す                  ることに専念する。
1900 第二子ラファエロが誕生する。ヴァイマールでマスター・クラスを行なう。(翌年の夏                   も行なわれた。)2番目の《ヴァイオリン・ソナタ(彼の「作品1」)》を完成させる。
1902 現代の作曲家たちに捧げられた、ベルリンにおける最初のコンサート・シリーズを指                   揮する。《ピアノ協奏曲》に取り組み始める。
1904 最初のアメリカ演奏旅行を行なう。《ピアノ協奏曲》を完成させる。
1906 『音芸術の新しい美学構想』を完成させる。ヴィーンでピアノのマスター・クラスを引 
     き受ける。《花嫁選び》を作曲し始める。
1907 ピアノのための《エレジー集》を作曲する。新しい対位法への関心が増しつつある。
1909 両親が死去する。《悲歌的子守歌》を作曲する。
1910 一層大規模なアメリカ演奏旅行を行なう。《対位法的幻想曲》を作曲する。バーゼル                 でのマスター・コースを引き受け、そこで彼は《ドクトル・ファウスト》の台本の前半を書                く。
1912 《花嫁選び》が初演される。《ソナティナ第2番》を作曲する。
1913 ボローニャの音楽院の校長に任命される。
1914 ベルリンへ戻る。自作による4つの演奏会を指揮する。《アルレッキーノ》の台本を書               き、クリスマスに《ドクトル・ファウスト》のテキストを完成させる。
1915 ニューヨークに居を構えるが、結局はヨーロッパへ戻り、チューリッヒに隠れ家を見つ           ける。
1916 《アルレッキーノ》を完成させる。《ドクトル・ファウスト》の音楽に取り組み始める。
1917 オペラ《トゥーランドット》及び《アルレッキーノ》が初演される。
1919 チューリッヒ大学の名誉博士に選ばれる。非常に長いイギリス訪問によって、スイス             の隠れ家での生活を終える。 
1920 3つの回顧的演奏会を指揮する。音楽雑誌『アンブルッフ』でブゾーニの特集号が組            まれる。プロイセン芸術アカデミー助成のもとで作曲のクラスを開く。重病の最初の徴               候が現われる。
1922 ピアニストとしての最後の演奏会を行なう。
1923 ヴァイマール及びパリへ旅行する。病気がさらに進む。
1924 べルリンで6月23日に死去する。
1925 《ドクトル・ファウスト》が初演される。

芸術家たちがブゾーニに捧げた言葉

彼の音楽を知らなくても、僕は彼の音楽の価値を信じる。――シュテファン・ツヴァイク

(リストとブゾーニは)両者とも並外れた魔力的な力をもって、常に或る秘密を探し求めていたのだが、その秘密は決して明らかにされなかったか、あるいはほんの僅かな瞬間の空間のために、彼らの目の前できらめきのように存在する場合にのみ、経験されるものであった。――シットウェル

ブゾーニは疑いのない作曲の才能を持ち、まじめな性癖を持っている・・・が、私は次のことを残念に思わざるを得なかった。[彼は]あらゆる点で自分の本性に暴力を加え、どんな犠牲を払ってでもドイツ人になりたかったようだ。――ピョートル・チャイコフスキー

私個人として知っているのは、私の不完全な思いつきを具体化してくれたこと、私の想像力を刺激してくれたこと、そして思うに、私の将来の発展を決定してくれたことである。――エドガー・ヴァレーズ

もし誰かがブゾーニを音楽家としてだけ知っているなら、その人は彼を知ったことにはならない。(そして誰がブゾーニを音楽家として知っているだろうか?)――アルフレート・アインシュタイン

ブゾーニは、新しい音楽の予言者と呼ばれている。しかし、新しい音楽の良心と呼ばれる方が、より適切であろう。――ヴィリー・シュー

作曲家
 最近の音楽史において、ブゾーニほど逆説と神秘に包まれた人物は、ほとんどいない。しかし、道理にかない秩序立った研究は、全く異なる像を明らかにする.つまり人がこれほど厳格な統制を自分の運命に行使したことはまれである.また、これほど自分の信念が一貫し、かつ自分の目的追求に一心であった芸術家と、我々が出会うことは滅多にない。
 彼はフィレンツェからさほど遠くない静かな田舎町エンポーリで、1866年4月1日に生まれた。従って、彼はトスカナ人に生まれ-どこに居ようとも、自分をトスカナ人以外の何者でもないと思っていた。彼の父親フェルディナンド・ブゾーニは、コルシカ島に生まれた旅回りの名クラリネット吹きであり、父親の放浪者的生活が、フェルッチョを生後8カ月の時に故郷から連れ去った。フェルッチョと母親、つまりドイツとイタリアの血が混じったピアニストであるアンナ・ヴァイスは、次の数年間、多少永続的な故郷となったトリエステに移住した。ここで6才の時、彼はピアノと作曲の勉強を、厳格かつ善良ではあるが余り専門的でない父親の監視のもとで始めた。早くも、その経歴のまさに初めから、彼は楽器演奏者としても作曲家としても同等の才能を見せた.つまり、8才で彼がモーツァルトの《ピアノ協奏曲ハ短調》を公開演奏した時、彼はもう自分の名声のために、かなり多くの子供っぽい試みをした。双方の能力において、彼は天性の才能を持っていた。ピアニストとして彼は、幼年期の数年間を[外見上の]並み外れた技量の発達に費やしたのだが、主な影響は、彼がリストを発見したことであった。作曲家として彼は、高度に個性的な様式の発展に向けて勉強した.そこでの画期的事件は、彼がブラームスを発見し、その後で拒絶したこと、及びブゾーニの成熟した作品の根底に在る選ばれた3人の先駆者、バッハ=モーツァルト=リストを確立したことであった。★ [脚注:1919年にブゾーニ自身は‘ パレストリーナ=モーツァルト=ベルリオーズ’を自分の系統であると列挙している。] この2つの分かち難い道に沿った、いかなる点においてもブゾーニの心の中で、自分はまず第一に作曲家であるということに疑念がなかった。子供の頃、彼は父親に利用された.自作や自分のリサイタルに少しばかりの個性を加えた即興の出来る、一家の稼ぎ手たる神童として。聴衆は、彼の若々しい、独創性のない作り事に微笑し、礼儀正しく拍手した.この不幸な少年は、自分の子供時代を、支援してくれる大人達を喜ばせるために努力することに費やした.その結果、この男は後に‘僕には子供時代がなかった’と不満を漏らした。知識に対する並み外れた渇望がなければ、ブゾーニはおそらく大抵の神童と同様、鳴かず飛ばずで終わっただろう。しかし彼は、新たに始めるための驚くべき能力を持っていた.(そのことは占星術師の弁によれば、牡羊座のもとに生まれた人に共通の属性である.)そして我々は、彼の生涯において、何回も復活の段階を観ることが出来る。
 14才の時、彼はヴィルヘルム・マイヤー=レミーのもとで作曲の勉強を初め、(そこでは他の弟子に、エミール・レズニックやフェリックス・ヴァインガルトナーがいた.) マイヤー=レミーはブゾーニに、対位法の込み入った事柄を教えた。2年後、ブゾーニはボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に認められた.その名誉を彼は、若きモーツァルトと分かち持ったことを喜んだ。この時期に彼の音楽は、幼い頃の独創性の無さから脱し始めた.そして《幻想的な物語》作品12 や《中世のスケッチ》作品33 のような作品において、偽りなく創意に富む輝きが現れる。若き作曲家は、非常に多作であった-本書の巻末にある作品目録を一瞥しただけで、作品の大部分が20才以前に書かれたことが分かるだろう。彼が作品を出版し始めたのは、およそこの時期であった。この期間の頂点は、ボローニャ市民劇場における、レオパルディにちなんだ完全な規模のオラトリオ《村の土曜日》を上演したことだった。
 次の段階は、北の方-ライプツィッヒにあった。ブゾーニは既に、バイリンガルであった。家では、ほとんどもっぱらイタリア語が話された.しかし、ドイツ語が公用語だったトリエステで生活した後、グラーツ、クラーゲンフルト、ヴィーンで過ごした年月は、彼がドイツ語を(たとえ突飛なものであろうと)流暢にすることに役立った。ライプツィッヒに居たこの時期は、たぶん彼の生涯において最も幸福で落ち着いたものだったろう。ついに両親から独立し、彼は友人仲間を得た-その中にはアンリ、若きエゴン・ペトリ、マーラー、ディーリアス、アドルフ・ブロトスキーがいた-そして、徹底的にドイツ化された。ブラームスは次のように語ったと伝えられている.‘私は、シューマンが私のためにしてくれたことを、ブゾーニのためにするつもりだ.’そして、ブラームスを通じてブゾーニはハンスリックに会い、彼の支持を得た。1883年にブゾーニは《6つのエチュード》作品16 をブラームスに捧げた。また、ブゾーニの作品は、テクスチュアの新しい堅固さを持ち、由来が非常に明かな語法に重きを置いていた。チャイコフスキーが1888年にブゾーニと会った時、チャイコフスキーは、この若者の才能を絶賛した.けれどもブゾーニが見せたイタリア出自への無関心に、かなりぞっとした。それはブゾーニが認めていたであろう欠陥だった.しかし残念な気持ちを持って.実際のところイタリア音楽が、彼にとっては一種の停滞段階に達しているように思われた.彼を逆の方向に説得したのは、ヴェルディによる1887年の《オテロ》と1893年の《ファルスタッフ》の出現だけであった。
 1888年、著名な音楽史家フーゴー・リーマンはブゾーニに、ヘルシンキでのピアノ教授としての地位を確保してやった。その地でブゾーニはスウェーデン人彫刻家の娘ゲルダ・ショーストランドと出会い、2年後にモスクワで結婚した。確かに、放浪の旅がその時彼を導いたのは、ロシアへであった.モスクワ音楽院のピアノ教授として、またセント・ペテルブルクでのルビンシュタイン作曲賞の受賞者として.賞の獲得は、彼の創作歴の第2段階における成功を決定的にしたのだった。彼は最初のオペラ《ジグーネ、または静かな村》に取り組んでおり、その短いスコアは1889年に完成した。この作品から生まれた最高のアイデアの多くは、ルビンシュタイン作曲賞に提出された作品の中に組み入れられたが、オペラ自体はスコア化されず、上演されなかった。
 ブゾーニは今や、ピアノを我がものにするための戦いに乗り出した。彼は作曲を続けたが、かなり自己批判的になり、自信を失っていった。これ以後、彼の作品はしばしば徹底的な改訂にさらされ、時にはすっかり書き直された。彼はさまざまな編曲をし始め、そのことによって有名になった.そしてまた、ライプツィッヒに対する忠誠の絆を破りもし、2年間をボストンとニューヨークで過ごした。1984年に彼はヨーロッパへ戻り、ペルリンに落ち着いた.ベルリンは彼の故郷であった-途中いくらかの中断があったけれども-彼の死まで。しかし、彼に選ばれた居住地が彼をドイツ人にした、とは言えないだろう。この街に10年間住んだ後でさえも、彼は自分が外国人以外の何者でもないと受け取られていることを悟った.そしてこのことは痛みを伴って確認された.第一次大戦中、コンサートの契約を確保するに際してワシントンのドイツ大使館に助けを求めて接近した時に。もっと傷つけられたのは、多くのイタリア人の態度であり、とりわけ報道では、記者も彼を外国人として扱い始めた。彼は部外者となり、スイスに移住して戦争が終わるのを待つ以外に、事実上、何の選択肢も残されていなかった。
 ベルリンへ戻ることを誘われなければチューリッヒが、生涯の終わりまで彼の故郷のままだったかもしれない。彼が戻って来たのは、この移転が彼に提供する新たな出発のためであった.また彼が音楽生活を再建するに、イタリアでよりもドイツでの方が、大きな可能性があると見込んだからであった。全くのところ、彼の生まれ故郷トスカナに対する彼の愛情は、現実的というよりはむしろ理念的なものだった。彼が可能ならば戻ったであろうイタリア、そして彼が所属することを望んだイタリアは、世界の中心でなければならなかったろう.ルネサンス時代にイタリアはそうであった。たび重なる試みと失望の後、イタリアの本当の状態は、この理想に遠く及ばないことが明らかになった.つまり教育制度は活動停止状態であり、大衆は横柄にも保守的だった.劇場ではプッチーニとヴェリズモ派が最高位に君臨していた.出版界ではリコルディが実質上の独占権を行使し、(かつ、ブゾーニとリコルディの関係は、余り真心の通ったものではなかっ)た。ドイツでは事情が違っていた。ベルリンは前衛芸術の大騒動が起こり、劇場において優れているもの全て、つまり音楽だけでなく文学と絵画の温床であった.ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社の社主オスカー・フォン・ハーゼの中に、ブゾーニは、いかなる作曲家も望み得る最大の忠実さで自分を援助してくれる出版者像を見出した.演奏会場でブゾーニは、すぐに自分の聴衆を定着させ、快適な環境で自分の作品を世に送り出すことが出来た。イタリアへ戻るのに有利な、これらの相当なメリットを無視することは馬鹿げていただろう.そして彼は1913年に一度ボローニャへ帰ってみたが、悲惨だと判明した。周囲の状況が、彼を亡命者にしたのである。
 コスモポリタニズムが多かれ少なかれ、彼に刻印されていたけれども、そのコスモポリタニズムは彼が次のことを悟るのを助長した.すなわち、或る国を他の国から隔てている、表面的に威厳のある国境が、いかに視野の狭いものであるか.そして彼は、普遍的な音楽、つまり地理的あるいは歴史的な区別を少しも知らない音楽、政治的あるいは宗教的な違いを超越した芸術-‘善悪を超えた[善悪の彼岸の]’芸術という概念を形にし始めた。
 『音楽の新しい美学試論』という彼の本が1907年に出版されてから、彼の生涯の終わりまで、ブゾーニの一つの目的は、この普遍的な音楽の性質を定義し、自分を可能な限りそれに近づける航海に乗り出すことであった。彼は、そのような旅が取らなければならないであろう形を予見した.つまり、探究の旅がアレゴリーの形で示される主要作品は、最後に来なければ気が済まなかった。そのような作品は、舞台のために書かれなければならなかった.そして彼自身以外の誰も、そのためのテキストを書けるなどということは全くありそうになかった。さらに、そのような作品は、彼のあらゆる業績の本質を要約しなければ承知出来ないだろう.それゆえ、完全に自由な実験という準備段階が要求されるであろう。1907年に《ピアノのためのエレジー》から出発して、ブゾーニは自分の新しい音楽の要塞の防壁を組み立て始めた.そして自分の舞台用アレゴリーの最初の表現として、彼は《花嫁選び》というコメディを作った。このオペラの主人公レオンハルトは、ブゾーニが投影された自伝的かつ神秘的な人物の最初の具体化であった。他にも多くの人物が、最後の全てを包括したオペラのために検討された.その中にはメルラン、さすらいのユダヤ人、ドン・ジョヴァンニ、レオナルド・ダ・ヴィンチが含まれる。最終的に、計画を何回か変更した後、またゲーテをものともせず、ファウストに落ち着いた。
 ブゾーニは非常に早いペースで、どんどん進み始めた。彼は調性と規則的なリズム構造の障壁を壊した。シェーンベルクと同じくらい声高に、不協和音の解放を宣言した.将来の音楽における機械装置、及び新たな楽器の必要性を口にした.新しいポリフォニー様式を確立し、記譜、新たな音階、微分音の新しい体系を提唱した。その後、戦争がやって来た。
 それはブゾーニの計画を打ち砕き、彼のあらゆる野心を挫折させる大打撃であった。それにもかかわらず、しばらくの間、彼は奮闘し続けた。1914年のクリスマスの間に、彼の素敵な寓意劇のテキストがついに明確化し、彼は《ドクトル・ファウスト》の台本を携えてアメリカへ飛んだ-そして彼のブリーフケースの中には、他のものはほとんどなかった。しかし戦争は、彼の音楽様式に根本的な変化をもたらした.ほとんど10年に渡って彼を駆り立ててきた研究への激しい衝動を弱め、新たな瞑想性と思いやりの感覚を引き出して。ゆっくりと苦しみつつ、彼は逆の運命へ効果的に転じる方法を見つけた.つまり彼は、自分の様々な試みを統合する仕事が、おそらく彼の望んだより早く、今や彼に与えられ、かつ、今や《ドクトル・ファウスト》のスコアに取り組み始める境遇にあることを悟るようになった。1919年、彼は友人のH.W.ドラーバーへ、自分自身のためだけでなく音楽の世界全体のために、その時、心に描いていた過程を書き送った。
 
 多くの実験が、この若い世紀で成されています。今や、私たちの達成したもの全てから-古いものでも新しい  ものでも-何か永続性のあるものを再び形作る時です.熟練した創作と音楽を作る喜びがもう一度、自分のものとならねばなりません。余りにも多くの、煮え切らないもの、憂うつなもの、主観的なものが存在しすぎました。不必要な雑音も。1[後注:H.W.ドラーバーへの手紙、1919年4月9日]
 
ブゾーニは、自分が若い古典性と呼んでいる概念を発展させた。そして‘目標’と見出しが付けられ1920年と日付が入れられた覚え書きの中で、彼はこの最終段階の指針を列挙した。 
 1.性質:若い古典性(‘完璧’)  2.形式:普遍的な領域としての劇場
  3.手段:旋律とポリフォニー、1/3音  4.体系的進歩の理論

 多くの無意味なことが、若い古典性について語られて来た.そして若い古典性は、大抵、新古典主義と混同されている。二者の間には(かなり洗練されていない)区別がある.つまり、前者は音楽と音楽創作の美学に他ならず、それによって無数の多様な音楽様式が与えられる.後者は、これら多くの新しい様式の一つである。ブゾーニは、パウル・ベッカーに次のような手紙を書いた.
 
 ‘若い古典性’という言葉によって私は、先行する試みのあらゆる成果に関する習得、選り分け、活用という意味のことを言いたいのです.つまり、堅固で美しい形をとったそれらの結合...しかし、この方法は、まだ認められていない多数の考えに基づくべきです...音楽の単一性という概念...動機労作の最終目的、及び女主人公としての旋律  を再び取り戻すこと...‘官能に訴えること’からの脱皮、及び主観性の放棄...晴朗さ の奪回...無条件の音楽。2[後注:パウル・ペッカーへの手紙、1920年1月。フランク フルター新聞にて、1920年2月7日に公開。The Essense of Music and other papers に 再録(伝記参照)] 私は古典性を、従来の古典主義から区別するために‘若い’という言 葉の重要性を強調しました。3[後注:ラファエロ・ブゾーニへの手紙、1921年6月18日]

 この新しい客観性[客観的実在]について、ブゾーニはレオナルドと一緒に、こう言ったことだろう.‘数学者でない人は、私の書いたものを読むべきではない。’そして彼は、アレクサンダー・マルコムによって1721年に書かれ、世間に知られていない英文の音楽専門書の中で、‘音楽は音の科学であり、その目的は喜びである.’というくだりを読んで喜んだ。
 上述した指針に従って、ブゾーニは《ドクトル・ファウスト》を完成する仕事に取りかかった。1917年の夏から死ぬまでの間に、彼が魅き付けられることで、このオペラに直接関係の無いことは、ほとんど無かった。その時までに彼は、ピアニストとして人前に姿を現わすことを最小限に減らしていた.ベルリン、ロンドン、パリ、ローマに範囲を限られた演奏旅行を基本として.また彼は、ほとんど出来る限り頻繁と言える程、指揮者として登場した。しかしながら、戦争の混乱は彼の上に傷跡を残し、1921年には、まもなく致命的であると判明する心臓病の最初の徴候を感じ始めた。最期に、このオペラの一つの場面だけは、まだ彼を避けていた.-ヘレナの幻影-そしてファウストの最期の独白は、その[幻影という]場面からの音楽が繰り返されるはずだったところで断念された。1924年7月27日にブゾーニが死んだ時、彼はこのオペラがどのように終わるべきか厳密に分かっていたけれども、ヘレナのための音楽を、彼が最初にヘレナのための音楽を思い浮かべた12年前以上には、決して記譜することが出来なかった。彼の死自体が、ほとんど象徴的な身ぶりとして起こった.つまり、彼のライフワークは、‘到達不可能な美の理想’を表現するという不可能性の上にのめり込んだのだった。4[後注:ブゾーニの日記、1914年12月23日]
 10年前、彼は予言的に書いていた.

 重要な芸術家の場合、第一期は自分自身を探究する時期、第二期は自分自身を発見する時期です.一方、第三期にして最終的な時期は、しばしば後の発見者の利益を新たに探 索する時期であるように思われます。5[後注:ブゾーニ『平均律クラヴィーア曲集』 第2巻の序文のための下書き、1914年]

   ブゾーニの‘第二期’は、世紀の転換期と一致していた。彼が自らに課した、20世紀最初の10年間における、自分自身を‘発見’する過程は、まもなく重大な変貌を遂げた.つまり若い音楽家の時、彼はブラームス、チャイコフスキー、サン=サーンス、ボイトのような音楽家達と密接な関係があったのに対し、彼は今や注意を、革命的な人物達、例えばシェーンベルク、バルトーク、ヴァレーズの活動に向けた。ブゾーニと同時代のフォーレやプッチーニのような(両者とも1924年のブゾーニの死から、ほんの数週間以内に死んだ)人にとって、自分たちをブゾーニほど根本的に変えることは相容れなかっただろう.そして、ひとは彼の友人であるシベリウスやディーリアスの活動の中に、こうして再び生まれ変わりたいという願望をほとんど見出さない.またブゾーニと同時代の最も偉大なリヒャルト・シュトラウスの活動においても、実際のところ、同様のことをほとんど見出さない。
 利用可能な表現手段に対する不満は、ブゾーニの人生の著しく早い時期に、声となって現れた.つまり、1893年にブゾーニが新しいオーケストラ楽器を要求したことが見られる.-すなわちサクソフォーン、シンバロン[訳注:ハンガリー・ジプシーのダルシマー。ダルシマーとは、小さなハンマーによって発振する台形の弦楽器で、ピアノやクラヴィコードの前身]、フルート属やオーボエ属の全て、ソプラノ・バスーン、サブ・コントラバス、6オクターヴの音域を持つテューブ・ベル-及び他のあまり使われない楽器のいくつかを、交響楽団へ正規に組み入れることを要求したのが分かる。20年後、彼の音楽言語が、こうした刷新に対処するためのより良い装備を施された時、彼はアルト・フルートとバス・フルート、バス・コール・アングレ(ヘッケル・ホーン[訳注:オーボエより1オクターヴ低い楽器。ヴィルヘルム・ヘッケルにちなんで命名] より低い)、6つのシンバロン(3つは弱音器なし、3つは弱音器付き)、2台の半音ハープ、ペダル・ティンパニ、その他、珍しい鳥〈ママ)などを持つようなオーケストラのための作品の数小節を素描しさえした。だが、それは構想に留まった。1919年に、彼は3つの鐘を《ドクトル・ファウスト》のために鋳造させた.このオペラのドレスデン初演に使われるべく。彼が鋳物工場へ、次のように書き送ったことは、特徴的である。
 
 私は楽器の手引書の中で、ボナンと呼ばれている(中国かジャワの)物が存在するのを、 読んだことがあります。ボナンは、枠の内部にワイヤーで吊るされた10ないし12のゴングから出来ています.それらは(カヴァーが付いている場合もあり)、木製のバチで打たれます。あなた方の平鐘に似たものを作ることが出来なかったのでしょうか?そうすれば、新しいオーケストラ楽器を生むでしょうに。6[後注:鐘鋳造業者 H.Rüetschi Arau への手紙、1919年5月30日]

 『新しい美学』の中でブゾーニは、6分の1音を用いるオクターヴの新しい分割を提案した。彼はそのための記譜法を考案し、後にはニューヨークの楽器製造業者に対して、1台の古いハルモニウムを、その音程に適応させるよう委託しさえした。-しかし、彼は新しい音程を自分の音楽には一度も組み入れなかった。同様に、彼のあらゆるオーケストラ・スコアにおいて、我々がともかく見出す最も異国的な楽器は、チェレスタやシロフォーン、バス・クラリネットやハープシコードである。刷新は、ほとんどない!
 これは、彼の人格における最も大きな外面上の亀裂である。しかし、彼は‘体系的な進歩の理論’を持ち、その非常な遅さと細心さにおいて、その理論は潜在的に意味の無い不規則なことや、未知の世界へ盲目的に飛び込むことはない。彼が実際に刷新したことは微妙であり、ほとんど目を見張るようなものは無かった.というのは彼が、既に存在する可能な事柄を、最大限に活用するのに集中することの方を好んだからである。従って、彼は《悲歌的子守歌》の楽器演奏技術や《ソナティナ第2番》の和声語法といったマイナーな新機軸をもたらした。彼の人生においては、過去との完全な断絶として描かれるような一大転換期がなく、主要な革命やセンセーショナリズムもなかった。彼は、まだCメジャーの中で言われるべきことがたくさんあるというシェーンベルクの発言を強く支持した。
 ブゾーニがシェーンベルクと出会ったことは、全くのところ、ブゾーニと[彼よりも]若い音楽家達との関係の中で、最も際立っていた。二人の音楽家は、早くも1903年に手紙を取り交わしていた.だが、最初の重要な接触は1909年に行なわれた。この時、二人は無関係に、不協和音を解放する独自の方法を見出していた.つまり、シェーンベルクは《ゲオルゲ歌曲集》作品15 及び《ピアノ曲》作品11 で一挙に変化して.ブゾーニは(作曲家としては)《青春に》第1巻のパッセージの中で試験的に、しかし(思想家としては)段階の必要性を確信しつつ。同じ結論に達する彼らの方法は、独創性という問題全体に関する彼らの異なる接近方法を示している。ブゾーニは慎重に動き、音楽は‘上へ向かう’小路を探し始めなければならないと書いた.シェーンベルクは目標を持たず、自分の探っていることが自分をどこへ導く可能性があるかについて何の考えも持たなかった。‘私の唯一の目的は、いかなる目的をも持たないことです’と彼はブゾーニに語った.7[後注:シェーンベルクからブゾーニへの手紙、1909年8月24日] そしてシェーンベルクは、革命の混沌とした精神を自分のオラトリオ《ヤコブの梯子》の中で表現した.すなわち‘右へでも左へでも、前へでも後ろへでも、上へでも下へでも-ひとは後先に何があるかを尋ねることなく、どんどん進み続けなければならない。’
 シェーンベルクの作品11の第1稿と第2稿の冊子が1909年6月に届いた時、ブゾーニはすぐにそれらが自分の新しい和声理論を裏づけていることを悟った。それらがなければ《青春に》の‘エピローグ’(及び、その後数年間の同様に際立った音楽の多くは)十中八九書かれなかったであろう。今度はブゾーニがシェーンベルクに『新しい美学』(これは2年前に出版されていた)の一冊を、彼らが兄弟分である証拠として送った。★[脚注:これはシェーンベルクが後日詳細に注解したものと同じ冊子ではない.それは第2版であり、1916年まで表に出なかった。] ‘あなたの『音芸術の新しい美学試論』[訳注:英語に忠実に訳せば、『音楽の新しい美学の概要』となる。ボーモントがなぜドイツ語のEntwurf をOutline と英訳したか疑問。]は私を非常に喜ばせました.とりわけ、その大胆さのために’とシェーンベルクはブゾーニに伝えた。8[後注:同前]

 シェーンベルクはまた、彼らの明白な一致を二つの円の共通部分にたとえた.‘扇形が大なり小なり一致しています-しかし互いに対立し合う他の部分もあります.’9[後注:シェーンベルクからブゾーニへの手紙、1909年8月] そしてブゾーニは交わる円のメタファーよりも接する円のメタファーの方を好んだけれども、原則的には同意した。
 ブゾーニはまた、シェーンベルクが1911年にベルリンへ戻る際に重要な役割を演じた.彼らの友情を最も親密な段階に至らせて。1913年の夏、シェーンベルクは《月に憑かれたピエロ》の私的演奏会をブゾーニのアパートメントで指揮した.(Ch.ⅩⅡを見よ)2~3週間後、ブゾーニはボローニャでリチェオ・ムジカーレの校長職に就いた。ブゾーニのイタリア人生徒の一人であるギド・ゲリーニ[またはグイード・グエリーニ]は、次のように思い出を語っている.

 シュトラウスとドビュッシーの和声言語を消化するまでに進歩したと考えていた我々に対し、彼は初めてシェーンベルクの理論を明らかにした.そしてまた、理論の逸脱、発展、可能な事柄を示した。10[後注:Guido Guerrini:‘Ferruccio Busoni Maestro,’Rassegna Musicale, フローレンス、1940年1月(伝記を見よ)]
 
 3年後、若い古典性という概念を形にしようとした段階で、ブゾーニはまだシェーンベルクを賞賛していた。彼はライヒテントリットに尋ねた‘あなたは分かっていなかったですか......シェーンベルクのような人物が音程を書き記す際の苦労の多い寸法[測定]を-他のどんな音もシェーンベルクを悲しませるでしょう。’11[後注:ライヒテントリットへの手紙、1916年1月6日。ブゾーニは1915年と誤って日付を入れている] しかし、その時までに、不協和音に対するブゾーニの概念は‘鳴り響く宇宙’という彼の見解の本質的な部分になっていた.一方、シェーンベルクは、《ピエロ》と《4つの歌》作品22以来、少しも前進していなかった.そして約7年間は、他の楽譜を出版する予定がなかった。ブゾーニがライヒテントリットに宛てた手紙は、ブゾーニが不協和音と自然との間に感じた親密な関係を、さらに重ねて暗示している。

 音楽の中で響きが‘間違っている’ということは、森の中において石や植物、あるいは 配置が間違っているということがあり得ないのと丁度同じように、あり得ません。私た ちは教科書から和声を、まさに見分けるようにならなければいけません。-私たちの 目標は、確かにポリフォニーの上に建てられるであろう(また森に匹敵する)この最も高い段階です。12[後注:同前]

 シェーンベルクの音楽に関してブゾーニが最後に記憶しているのは、多分《期待》及び《幸福の手》という作品だった.潜在意識に対する、それらのヒステリックな調査研究は、自然の声に対するブゾーニの晴朗な知覚とは、もはや調和しなかった。1917年までに、表現主義は、彼の地平から消えて行った.そして1918年までに、それは文字通り、彼にとって汚い言葉になっていた。《アルレッキーノⅡ》における、奇妙な表現主義者、ザウバー・バッサー[清潔な水]氏の様子は、シェーンベルクを出汁にした冗談のように見える。
 もしブゾーニが自分の同僚の芸術的危機に気づいていたならば、もっとシェーンベルクに同情的だったかもしれない。しかし正直なところ、ブゾーニは、自由な無調性の危機に対して、1911年という、はるか以前に、警告を発していた.‘無秩序’:‘シェーンベルクはそれを試みているが、それは既に、完全な円をひっくり返し始めている。’13[後注:ブゾーニ:‘新しい和声’1911年出版、『音楽の本質』]

 ブゾーニがシェーンベルクの最初の十二音音楽について、何か知っていたことを示す証拠は何もない.ブゾーニが、その体系的方法の厳格さをとても喜んでいたようにも見えない。しかしながら、十二音音楽は、ブゾーニ自身における若い古典性の発展と非常に近い、シェーンベルクの経歴の転換点を印している.また、それによってシェーンベルクも‘何か永続性のあるもの’を再び創作する必要性を表わした。なるほど、この冒険物語の終わりに、二つの円は再び交わり始める.ゲルダ・ブゾーニはシェーンベルクに《ドクトル・ファウスト》のスコアを完成するよう頼み、シェーンベルクはそれを断った.一方、レオ・ケステンベルクはシェーンベルクにブゾーニの死によって空席となっていたプロシア芸術アカデミーの教授職を提示し、シェーンベルクはそれを受け入れた。
 いつも、ブゾーニとシェーンベルクの関係は、複雑そのものであった.その強烈さゆえに、両当事者の親愛な意図ゆえに、彼らがお互いを理解することは、究極的に無能力だということが余計に目立つ。完璧さという理念-ブゾーニの最も高い理想-へ楽しげに嘲笑を浴びせるシェーンベルトのやり方の中に、我々は、シェーンベルクの誤解の幾分かを知覚することが出来る。
 
 あなたは本当に、そんな無限の蓄積を完璧に整えるのですか? あなたは本当に、それが到達可能だと思っているのですか? 私は神の作品、つまり自然の作品でさえ、極めて不完全だと思います。いや、私は完璧さを、指物師、庭師、ケーキ職人、美容師らの作品にのみ見出します。14[後注:シェーンベルクからブゾーニへの手紙、1909年8月24日]

 ブゾーニは自分自身を、音楽がそれまで存在していたよりも一層高く、一層純粋な領域へ音楽を導くべき精神的指導者と見なしていた。彼は、音楽の世界が中世的な停滞に捕われている状態にあると気づき、新しいルネサンスを宣言する最初の人になることが自分の義務であると感じていた。ヘルマン・ヘッセのように、彼は言いかねなかった.‘私は新時代の終わり近くに生まれた.中世への初期回帰の少し前に。’15[後注:ヘルマン・ヘッセ:‘略歴 (1924年)’『新展望 ノイエ・ルントシャウ』36号(1925年8月) pp.841-56.]そして、商業的に方向づけられ、道徳的に視野の狭いアメリカ合衆国社会の中で、ブゾーニは‘新しい中世’(《アルレッキーノⅡ》を参照)の抑圧的な支配を最も生々しく感じた。彼の音楽においては、こうした状況への周期的な言及がある.-直観的には、彼が若い頃の《中世のスケッチ》や《古い舞曲》において.半ば意識的には、1895年に作曲された《武装した組曲》作品34において.よく知られた事実としては、彼の成熟した音楽について、グレゴリオ聖歌と粗削りなオルガヌムの調和を益々頻繁に頼みとすることにおいて。或る注釈者が説明したように、‘彼は中世に戻って行った.なぜなら彼はそこに、彼が望んだものを見出したからである-彼自身の潜在的に驚くべき未来にもかかわらず、人間の非実在という感覚を。’16[後注:Bernard Bromage:‘The Mysticism of Ferruccio Busoni’,The Modern Mystic, London, Sept.1938, pp.340-3.] 

 美学に関する自分の著作においてブゾーニは、この‘素晴らしい未来’の性質について、やや詳細に示した。彼の音楽は、その方向に最初の二三歩を踏み出しているに過ぎない.その事実が(とりわけ)ヴァレーズに、自己矛盾を見抜かせた。しかしブゾーニは、自分がほんの少ししか新しい音楽に食い込まなかったことに気づき、そして自分の努力の成果を来たるべき世代へ譲り渡すことに熱中し始めた。それで‘体系的進歩の理論’というわけなのである。この長い旅の終わりに、そこでは‘素晴らしい未来’が現実になるのだが、人類は完璧さに到達するだろうし、楽園が取り戻されるだろう。《ドクトル・ファウスト》におけるヘレナの幻影は、この完璧さへの到達を表現した。人類が、この目標に遠く及ばないことは明らかだった.そして、それゆえ、この幻影が消える前、ファウストに対して素早く、かつ恐ろしい程に姿を現わす。
 ヘレナによって表現された音楽的宇宙のための幾つかの隠喩は、ブゾーニの著作において見つけられ得る.例えば、大きなゴシック聖堂や神秘的な隠れた神殿のイメージ(それを我々はアラジンの洞窟と呼ぶようになるであろう)。彼はさらに、庭の隠喩を用いる。
 
  作曲家というものは、私にとって庭師のように思われる.その庭師に、土地の平面図は 規模が大きかろうと小さかろうと、洗練のために配置される。....それは、この庭師が自分の目と腕(自分の識別力)の範囲内で、その割り当てを知って整える役割に相当する。こういうわけで、バッハやモーツァルトのように力のある人でさえ、地球の完全な植物 相の一部を探り、扱い、展示することが出来るだけであろう.惑星を覆っている楽園のほんの小さな断片を。17[後注:ブゾーニ「音楽の本質」1924年出版、『音楽の本質』]

 しかしながら彼は続ける.庭さえ、不十分な隠喩である.というのは、庭がたった一つの平面を占めるに過ぎないからである.音楽が宇宙全体であるのに対して。彼が、この‘音楽の王国’を世界のあらゆるメロディが同時にかつ永遠に振動する一つの領域として描くことは、おそらく彼が自分の先見性を言葉で定義する際に最も接近したものである。そのような領域において、時間と空間は意味がない。こうして彼は、自分の実験にとって根本的である一つの概念を形成するようになった.-その概念とは‘時間の遍在’★ である。★[脚注:‘私は時間の遍在に対する一つの説明を、ほぼ見つけました.-しかし私は、なぜ私たち人間が時間を過去から未来への直線として理解するのかを、発見していません.時間は宇宙における全てのもののように全方向の形でなければならないにもかかわらず。(ゲルダへの手紙、1911年3月30日)]
 一刹那さえブゾーニは、この空想的な‘王国’が、普通の人によって到達可能であると思わなかった。1909年における彼の実験期の絶頂で、彼は次のように尋ねた.‘100万のリードの和声を反響させるために、人々が発明し動かし始める楽器が、どこにあるでしょうか? 世界のオルガンの1000のレジスターを演奏可能なものと変え得るテクニックが一体どこに存在し、そもそも、これから存在するのでしょうか?18[後注:ブゾーニ「芸術と技術」、1909年出版、『音楽の本質と一元性』]
    
 眠っている世界に対して新しい音楽的ルネサンスを宣言するという願いの中でブゾーニは、自分自身が、偉大な同国人レオナルド・ダ・ヴィンチへと引き寄せられていることに気づいた。これら二人の芸術家の個性には、目立った類似点が幾つかあり、親近性はブゾーニに、かつて次のようなことを言わせた.‘おそらく私は間違っています.それとも私は自分が、私自身のはるかに小さな個性との類似点を、この人物の中に見ると思っているのでしょうか?19[後注:ゲルダへの手紙、1908年11月8日]
 
 第一に、単なる生まれの問題.つまり、エンポーリとヴィンチは5マイルしか離れていない。それゆえブゾーニは、時間経過に対する柔軟な感覚によって、レオナルドの中に隣人、すなわち仲間のトスカナ人を見出したのだろう。どちらの芸術家も、彼らが実際に成し遂げたことより、はるかに多く思索的な力を持っていた.一例が、ケネス・クラークによって、有名なレオナルド研究の中で引用されている.‘遠近による色の見え方に関する覚え書きは....多くの鋭い観察記録を含んでいる.その中で彼は、印象主義の諸理論を先取りした.しかし、これらの観察記録を....自分の絵画の中で合体させるようなことは、彼の性質にはなかった。’20[後注:ケネス・クラーク『レオナルド・ダ・ヴィンチ』、ロンドン、 1935年] 完璧さへの願望は、レオナルドの場合、一つの作品を仕上げることの無能力に対する理由であることが、しばしばだった。ブゾーニは作品を未完のままにする癖はなかったけれども、レオナルドの気後れの中に、自分の分身を見つけた。彼がレオナルドを知っているという一つの主要な典拠は、ディミトリィ・メレシュコフスキーの長々とした小説(レオナルド・ダ・ヴィンチ)であり、著作は事実に綿密に基づいていた。ブゾーニは‘ジョヴァンニ・ボルトラフィオの日記’と題された一章を、特に誉めた.その章の中に彼は、レオナルドに関する次の評価を見つけた.‘彼はいつも、まさに最高のものを求め、到達出来ないものを求めて-どんなに偉大な職人技であっても、人間の手が決して表現することの出来ないものを求めて努力する。’21[後注:ディミトリィ・メシュレコフスキー『レオナルド・ダ・ヴィンチの小説:神々の再誕』、セント・ペテルブルク、1901年] ヴァザーリも、レオナルドのことを次のように書いている.‘彼は、どんな人間のモデルをも探そうとしなかった.また、彼は人間の姿をした神にきちんと付属する美しさと美しさを自分の想像力が思いつくと、あえて考えることもなかった。’22[後注:ヴァザーリ:Le Vite, Goerge Bill訳、Harmondsworth、1965年] このように好奇心をそそる観点で、ブゾーニがヘレナの幻影を完成させなかったことは、合点がいく。まさに、彼のヘレナ像のつかみどころの無さは、レオナルドに触発されたブゾーニが、完璧さを追求した証拠である。
 双方の芸術家に共通する、もう一つのテーマは、飛びたいという願望であった。レオナルドにおいて、この執着は、観察、実験、そして(もちろん)失敗という実際の形をとった.彼は飛んでいる鳥たち、飛ぶためのグロテスクな機械や付属物の数え切れないスケッチを作った。もっと尋常でないことは、彼の空中から見た風景と街の眺めである.たとえ彼は空中に舞い上がることが物理的に出来なくても、彼の物を見る力は、そうすることが出来た。ブゾーニの飛びたいという願望は、全く想像の中だけであった。それにもかかわらず、まさに1903年、彼の実験期の初め頃、ライト兄弟が最初の飛行をした.その偉業はブゾーニに、新しいルネサンスが今や手近に迫っていると確信させるのに役立ち、また、機械が人類の進歩において、常に増加し続ける役割を演じるであろうという彼の見方を補強するのに役立った.実際的なレヴェルと同様、文化的レヴェルでも。飛ぶことの中に彼は、音楽の神聖な属性を見出した.‘音楽は、両足で地面に触れているのではない。’23[後注:ブゾーニ『音芸術の新しい美学構想』、トリエステ、1907年]
  双方の芸術家は、完璧さという理想を目ざして努力した.豊富なスケッチと研究の助けを借りて.それらの多くは、それ自身の価値によって芸術作品である。確かにブゾーニの最も完璧な作品《悲歌的子守歌》は、まさに細密画である。その上、両方の芸術家は、我々が彼らの主要作品に見出すよりも、かなり大胆な素材に関する表現のためのスケッチを用いた。レオナルドの完成された絵画の中には、グロテスクな頭の研究や想像上の自然大災害といった、当惑させる略図と比べうるものが何もない.ブゾーニの2つの本格的なオペラ、ピアノ協奏曲、及び《対位法的幻想曲》は、疑いなく彼の作品の焦点であるのだが、我々が、最初の2つのピアノ・ソナティナ、あるいは第2・第3のオーケストラのためのエレジーにおいて見出す、空想の飛翔のうちの何も持っていない。

(以下略)

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2006年3月31日 (金)

ブゾーニはモード・アランの家でバーナード・ショウに出会った

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これは、ボーモント著『Busoni, the Composer』の64ページと65ページの間に挿入された写真の下に書かれている説明を転載したものです。ボーモント氏となかなか連絡がつかないので、写真を勝手に掲載することが出来ませんが、この文の上にはブゾーニがライオンの敷物の上でくつろいでいる写真が掲載されています。ここから、ブゾーニが舞踊家モード・アランの家でバーナード・ショウに出会ったことが分かります。バーナード・ショウは誰でも知っている劇作家・エッセイスト・社会評論家だとは思いますが、念のために『岩波=ケンブリッジ 世界人名辞典』(東京:岩波書店、1997年)の455ページから抜粋して、句読点を日本のものに直し、以下に記しておきます。

ショウ、ジョージ・バーナード Shaw, George Bernhard (英1856~1950)アイルランドのダブリン生まれ。1876年にアイルランドの事務職をすて、ロンドンに移る。1882年に社会主義に転じ、フェビアン協会に参加。音楽や演劇の批評を書いたり、評論を出版して、ジャーナリストとして知られるようになる。1885年に劇作を始め、初期の成功作に「武器と人間」(1894)、「キャンディダ」(1897)、「悪魔の弟子」(1897)などがある。ついで、「人と超人」(1903)、「バーバラ少佐」(1905)、「医者のジレンマ」(1906)ほか数作が続くが、これらの作品は主題範囲の拡大を示している。後期の演劇には《宗教的無言劇》である「アンドロクレスとライオン」(1912)や、《反ロマン主義的》喜劇「ピグマリオン」(1913)があり、後者は1956年にミュージカル「マイ・フェア・レディ」に翻案された(映画化1964)。第一次世界大戦後は「ハートブレイク・ハウス」(1919)、「メトセラに帰れ」(1921)、「聖女ジョーン」(1923)を発表。40作以上の劇を書き、90代になっても創作を継続した。綴字法改革にも熱心な関心を寄せ、大半の作品は速記で書き、さらには、音韻原則に従った新しい英語の(《ショー方式←ママ》と呼ばれることになるアルファベット考案のために財産を贈与した。1935年にノーベル文学賞を受賞した。

日本語で書かれた舞踊関係の本には、1999年までモード・アランの名前がフル・ネームでは出て来ませんでした。海野弘先生には既に許可を頂いてありますので、海野先生の本から大幅に引用して紹介します。m

海野弘『モダンダンスの歴史』(東京:新書館、1999年)の138ぺージから144ページまでを読めば、モード・アランのことが分かります。この7ページ分を読むだけのためにこの本を買っても、決して損ではないと思います。138ページに書かれている文章を引用します。私が個人的に強調したい部分を太字にしました。

彼女は、イサドラ・ダンカンの模倣であり、一時的なファッションにすぎないとされてきた。しかし、ダンカンが一人でモダンダンスの歴史をつくったわけではなく、同時代のさまざまな動きと関連していたことを明らかにするために、モード・アランの生涯をとりあげてみたい。

同著の141ページには、「モードは、フェルッチオ・ブゾーニと知り合った。ブゾーニのコンサートで、彼女はマルセル・レミに紹介された。」と書かれています。さらに読んでいくと、同じページに「おそらく、彼女はピアニストとしての可能性にある疑問を持ち出していたろう。あまりにも優秀なライヴァルが多い。」 とも書かれています。要するに、ブゾーニの存在を知ってピアニストの道をあきらめたのです。これは「1908年、ロンドン」という項目に書かれていますので、1919年にモード・アランの家でブゾーニがバーナード・ショウと出会ったという前述の写真の説明と照らし合わせた場合、ブゾーニとモード・アランが少なくとも11年は親交があったということになります。実を言うと私は、オードリー・ヘップバーンが主演した映画《マイ・フェア・レディ》の作者としてしかバーナード・ショウを知りませんでしたが、もっと良くご存知の方も多い有名人でしょう。ブゾーニとモード・アランもそういう有名人になるよう、日本人の常識が変わる日を夢見て、画質は悪いけれども、明らかにイサドラ・ダンカンよりスタイルの良いモード・アランの写真を下に掲載しておきます。イサドラ・ダンカンのように太りすぎではない、ということを示すだけです。あとは、海野先生のさらなるご研究を待ちたいと思います。 私がモード・アランについて自分で研究するのは、物理的に無理だからです。

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2006年2月28日 (火)

エルメン著『Ferruccio Busoni』から転載した資料

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子供時代の作品
Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt,1996 ),s.17.
より転載

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エンポーリの生家
Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.8.
より転載

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神童、1878年頃
Reinhard Ermen, Ferruccio Busoni ( Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, 1996 ), s.13.
より転載

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2006年1月31日 (火)

ルードルフ・フォン・ラバン Rudolf von Laban に関する資料

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ラバンの横顔
Rudolf von Laban. Eine Leben für den Tanz ( Dresden: Carl  Reisser Verlag, 1935 ) より転載
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ドゥシア・ベレスカ
Rudolf von Laban. Die Welt des Tänzers ( Stuttgart:  Walter Seifer Verlag, 1920 )より転載W18192r

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メリー・ヴィグマン
Rudolf von Laban. Die Welt des Tänzers ( Stuttgart: Walter Seifert Verlag, 1920 ) より転載  

   

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(注)以下は、Valerie Preston-Dunlop. Rudolf Laban: An Extraordinary Life( London: Dance Books, 1998 ) の表紙に記載されていた記事を、2005年東京藝術大学大学院音楽研究科修士論文提出のため、2003年に訳したものの一部です。

ヴァレリィ=プレストン・ダンロップ著『ルードルフ・ラバン』の紹介

空想家、神秘主義者、恋多き男、指導者、美術家(訳注:「芸術家」の誤訳ではない)、教師、理論家・・・ルードルフ・ラバン(18791958)はこれら全ての人であり、それ以上だった。ダンロップの著作はラバンの並外れた人生の物語である。ラバンの人生は混乱した近代ヨーロッパの背景を形成した政治的・社会的・文化的な激動と深く結び付いていた。

世紀末のハンガリー・オーストリア帝国に生まれて、ラバンはウィーン、パリ、ミュンヘン、チューリッヒ、ベルリンで生活した。彼は古い秩序の崩壊を目撃し、2つの世界大戦のトラウマを切り抜けた。彼は新しい社会の誕生と芸術的な動きを見た。そして、ナチズム(ドイツ国家社会主義)の隆盛について行った。ただし、彼は結局ナチズムから逃亡を余儀なくされ、最初はフランスに、そして最終的にはイギリスでもう一度人生を立て直した。

彼は画家、建築家、イラストレイターとして出発したけれども、永く影響を残したのは動作と舞踊においてだった。彼はパフォーマー、振付師、助言者であった。しかし、彼の思いつきは常に一層広い「動作の理想像」――劇場芸術としても、地域社会の儀式としても、自己発見としても――の一部分だった。

動作の研究を通じて、彼は身体と精神の相互連結を明らかにした。また、彼は革命的な「動作記録の方式」を考案し、それは今日でも使われ、影響を及ぼしている。

ラバンが他の人々を鼓舞したのは、仕事を(中断したところから)再び始めて発展させるという人生の歩み方全てだった。彼の思いつきは舞踊においてだけでない、演劇やパフォーマンスにおいても、非言語コミュニケーションの研究においても、人間工学においても、教育理論や子供の発育においても、人格の評価と精神(心理)療法においても新機軸を生み出した。

並外れたカリスマ性と人間的魅力を持つ男、ラバンは複雑であり、絶対に型にはまらず、深く身を捧げた。本書は、初めての充分なラバンの伝記であり、理想主義的で覚醒し、決断力のあった彼の人生の注目すべき物語を伝えている。

                           ☆☆☆☆

翻訳が待たれるラバン著

Laban, Rudolf von. Die Welt des Tänzers. Stuttgart: Walter Seifert Verlag, 1920.

Laban, Rudolf von. Ein Leben für den Tanz. Dresden: Carl Reisser Verlag, 1935.

Laban, Rudolf Lawrence, F.C. Effort. London: Macdonald Evans, 1947.

また、下記の諸著作をアマゾン・マーケットプレイスの最低価格より安くお譲りします。どの原本も劣化を恐れ、購入後すぐにコピーを取って、原本は涼しい場所に保管しましたので、ラバン研究のコレクター商品としては最適だと思います。我こそはラバンの言動を解明したいと思われる方、ラバンが好きな方、ぜひ、ご連絡ください。

Laban, Rudolf von. Gymnastik und Tanz. Olenburg: Gerhard Stalling Verlag, 1926.

Laban, Rudolf von. Kindes Gymnastik und Tanz. Oldenburg: Gerhard Stalling Verlag, 1926.

Laban, Rudolf. A life for Dance. Translated and annoted by Lisa Ullmann.New York: Theatre Arts Books, 1975.

Laban, Rudolf. Modern Educational Dance. London: Macdonald Evans, 1948.

Laban, Rudolf. Mastery of Movement on the Stage. London: Macdonald Evans, 1950.

Laban, Rudolf. Mastery of Movement. 2nd ed. by Ullmann, Lisa. London: Macdonald Evans, 1960.

Laban, Rudolf. Principles of Dance and Movement Notation. London: Macdonald Evans, 1956.

Laban, Rudolf. Choreutics. ed. by Ullmann, Lisa. London: Macdonald Evans, 1966.

Laban, Rudolf von. Die Welt des Tänzers. Stuttgart: Walter Seifert Verlag, 1920.

Laban, Rudolf von. Ein Leben für den Tanz. Dresden: Carl Reisser Verlag, 1935.

Laban, Rudolf Lawrence, F.C. Effort. London: Macdonald Evans, 1947.

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2005年12月31日 (土)

洗練された raffiné ブゾーニの魅力

私がブゾーニに関して一番感じることは、彼が洗練されているということです。19世紀から20世紀にかけてベルリンやウィーンを中心に八面六臂の活躍を続けたブゾーニは、単なる音楽家とは言えないほど、多彩な才能を見せています。美術に造詣の深い人が、「ブゾーニの描いたスケッチはユーゲントシュティールのものである」と言っていました。もちろん、ブゾーニは音楽家としても、ピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。教育者、著述家など、様々な面を見せています。ブゾーニがゲーテの『ファウスト』に対抗して作った《ドクトル・ファウスト》は、絶世の美女ヘレナには歌手でなく、ダンサーを使おうとしていました。実際のところ、ヘレナには歌手よりもダンサーの方がふさわしいと思います。この時、候補に挙がったイサドラ・ダンカンモード・アランはいずれも当時一流の女性モダン・ダンサーでした。彼女たちは大変スキャンダルの多い女性であったにもかかわらず、ブゾーニとの関係では醜聞を残していません。また、作品中、グレートヒェンの兄が殺されるという奇想天外な場面では、モダン・ジャズの先駈けとも言えるメロディアスな音楽を使っています。オペラ《アルレッキーノ》では、主役の二人がダンサー、または踊りの嗜み(たしなみ)がある俳優によって演じられるようになっており、昔ダンサーの端くれであった私にとっては非常に面白い作品です。そういう部分を紹介しながら最終的には、ブゾーニが「20世紀のレオナルド・ダヴィンチであった」と言っても過言ではないことを証明したいと思っています。ただし、彼は数学教育を受けなかったのか、奇妙なところで数学的には初歩的なミスをしていたりして、完璧ではないところが、余計に興味をそそられます。

私は自分の洗練度が足りないので、「洗練された人」が大好きです。これは私の「美学」の出発点と言っても良いでしょう。現実にも、一般には知られていない「或る非常に洗練された大物経済人」を存知上げており、ブログにフル・ネームを書きたいくらいですが、その方はマスコミにも顔を出されず、このブログに名前を出すことも拒否されているので残念ながらお名前は出せません。ともかく、その方は、洗練された話し方をなさいます。 Il a une manière raffinèe de parler. ラバン、ミッシェル・ポルナレフ、マイケル・ジャクソンは、性癖に問題のある写真を残してしまい、「洗練」とは程遠いため、残念ながらブゾーニとは決定的に扱いを変えています。特に、ミッシェル・ポルナレフについては、異常な写真の存在を知ったのが最近のことなので、まだ受け入れられない状態でいます。私が子供の頃のミッシェル・ポルナレフは、クラシカルな音楽教育を受け、他のアーティストたちとまるで違う光を放っており、私の偶像の一つだったものの、彼の奇行があからさまになったスキャンダラスな写真のために偶像ではなくなりました。しかし、私のポピュラー音楽・生活の出発点とも言えるミュージシャンなので、今だに彼の曲は聴きます。また、私と私の同居人の人生の一時期はマイケル・ジャクソンの歌や踊りとともにあるようなものでした。

話題を日本人の「動き」に変えます。イチロー、東山紀之、(マツケン・サンバの振付師)真島茂樹さんの「動き」も、或る意味で洗練されています。真島さんを別格扱いしているのは、20年以上前に私がモデルやダンサーをしていた時、私の友人(野田哲由君・私とは高校の同窓生で、現在は某大学の先生)が当時日劇のトップダンサーだった真島さんに、私の下手な踊りの写真がたくさん掲載されたアルバムを手渡してくれたことがあるからです。マツケン・サンバで一躍有名になられましたが、(失礼ながら)あのお歳であれだけ動けるのは素晴らしいと感心しています。女性の有名人として興味があるのは、バレリーナのシルヴィ・ギエムと草刈民代です。また、現時点では青森に在住し、地道に活動している上野智子(うわのともこ)さんも将来、必ず日本の現代舞踊家の一番手として舞踊史に残ると思います。ブログに断りなく挿入してある写真の中には、25~20年前の私の写真です。

私は高校時代、一般の日本人には想像・達成することが不可能なほど多芸多才なピアノの先生に師事しました。堀部博海先生という方なのですが、堀部先生は、まだ大学院へ行くのが難しい時代に、法学修士号と経済学修士号を取得され、税理士の看板を掲げる傍ら、僧侶・牧師・大学教授・ピアニスト・ピアノ教師・書道家などとして活躍しておられます。私は、堀部先生のもとで、バッハの楽曲を全てヘンレ版とブライトコプフ社のブゾーニ版の2種類を使って勉強しました。当時はブゾーニの顔を知らないまま、ブゾーニの解釈でピアノを演奏していたわけです。Dr.エルメンの本でブゾーニを見て、その美しさに惚れ惚れしました。ピアニスト・作曲家・編曲者・指揮者・音楽大学教授・著述家などとして、さまざまに活躍し、素晴らしいイラストまで残しているブゾーニの容姿が、良かろうと悪かろうと、彼が残した芸術の価値とは関係ないと思っています。しかし、せっかくブゾーニの写真が残っているのですから、彼の内面の美しさが外面にもにじみ出ていることを示したくて、ブログを作るに至ったのです。

2005年12月19日
20:14にDr.エルメンからメールが届き、ブログの目的がほぼ確実に達成出来そうな気がします。彼のご好意により、彼の本から写真を掲載させて頂けているのです。Dr.エルメンのお書きになった本は、とてもコンパクトなものですが、ブゾーニの魅力を存分に伝えてくれています。

Zu liebem Dr. Ermen,
Ich las die E-mail, die Sie mir sehr wunderbar gaben. Ich will das Buch übersetzen in Sie das irgendwann in Japanish Deutsch schrieben.

2005年12月21日
20:31にDr.エルメンから頂いたメールでは、日本の出版社が彼の本に興味を持ってくれて、私が訳すことになったら、推薦文を書いてくださるとのことでした。非常にありがたいお言葉です。 実は、ブゾーニ著『オペラの可能性について及び「ドクトル・ファウスト」のスコアについて Über die Möglichkeiten der Oper und über die Partitur des` Doktor Faust' ( Leipzig: Breitkopf & Hä rtel,1926 )』、ハインリッヒ・ベッセラーの講義録『ヨーロッパ音楽の声楽様式と器楽様式 Singstil und Instrumentalstil in der europäischen Musik( In Bericht über den Internationalen Musikwissenschaftlichen Kongreß, Bamberg 1953, edited by Wilfried Brennecke and et al,223-240. Kassel: Bärenreiter,1953 )』なども翻訳済みです。情報をきちんとお伝えしたいので、横文字ばかり並べてすみません。興味を持って頂けた出版社の方は、このブログの右にある「メール送信」からお知らせください。

2005年12月25日Akiko-08

ストレッチをしながら、フジテレビ系列の局で「日本フィギュアスケート選手権」女子のフリーの演技を見ました。最近の日本の女子フィギュアスケートは非常にレヴェルが高く、仕事の片手間ではなく真剣に見る価値があると思いました。ジャンプ一辺倒だった伊藤みどり選手の時代に比べると、随分レヴェルが高くなったものだと感心しながら見ました。1位の村主章枝選手、2位の浅田真央選手は何も言うことがないほど素晴らしく、心の底から感動しました。村主選手は、怪我で不振に泣いていたとは思えず、身体に無駄な筋肉もなく、全てが洗練されていて、女王の貫禄充分でした。また、天才少女浅田選手は年齢制限のために、トリノへ行けないのが残念ですが、まだ若いのでこれから先が楽しみです。3位の荒川静香選手は、いつもながら良い意味での色気と存在感があって素敵だと思いました。トリノオリンピックの選手に、村主選手と荒川選手が選ばれたのは、全く異存がありません。しかし、3番目の枠に中野友加里選手ではなく、6位に終わった安藤美姫選手が選ばれたのには、違和感を覚えました。安藤選手のファンには悪いけれども、最近の彼女は身体状態があまり良くありません。ついているバレエの先生の指導が悪い、ということも考えられます。「バレエ」と聞いて違和感を持たれた方は、今から認識を新たにしてください。私が「バレエ」と言う場合は、「トウシューズ」を履いて踊ることを指すのではありません。全ての美しい動きの基礎を作るためには、バレエのレッスンを受けるのが一番の早道です。かく言う私も昔、バレエを習っていて、バレエの世界では全くの「落ちこぼれ」「お客さん」という立場でしたが、モデルやジャズ・ダンサーとしては充分なお金を稼ぐことが出来ました。本当は、学校の「体育」の時間に「創作ダンス」などという無駄なことをやっていないで、バレエの基礎を教えれば良いと考えています。安藤選手の話に戻りますと、アメリカ人コーチが彼女に何を教えているかが、非常に気になります。スケート用語が分らないので、私はバレエ用語を使いますが、「アラベスク」「アチチュード」「パンシェ」のポーズがまるで出来ていません。17歳にしては無駄な筋肉が付き過ぎていて脚が重く、困っているのではないかと思われます。銀盤で舞うには、「舞」の練習が必要です。きちんとした先生について「バレエの基礎練習」をする必要があります。村主選手は、良いバレエの先生がついていると思います。先ほど、伊藤みどり元選手が解説者としてテレビに出て来て、安藤美姫選手に対するコメントとして「精神性を磨くように・・・」などと見当違いのことを言っていました。伊藤みどりファン・安藤美姫ファンの方、ごめんなさい。彼女たちに冷静な「美的価値判断」を加えるとすれば、こう書く以外にないのです。

2005年12月27日
ミキティ〈安藤美姫)さん、どうかチェケッティ・メソッド(今はロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスR.A.D と呼ぶのでしょうか・・・)でもワガノワ・メソッドでも良いから、きちんとした先生について、クラシック・バレエの基礎をきちんと教えてもらってください。今のあなたでは、トリノでメダルを取るどころか入賞も無理でしょう。あなたの絶不調を救ってくれるのは、「正しいバレエのレッスン」だけです。

2005年12月29日
20時からNHK教育テレビで「趣味悠々・パパイア鈴木のエンジョイダンシング!」という番組を偶然見ました。普段は語学講座をテキストなしで見る以外に、NHKの教育テレビを見たことがなかったので、こういう番組があったことも知らず、残念なことをしました。もし知っていたら、最初からずっと見たのに・・・今日は最終回だったようですが、昔なつかしいディスコのステップのオン・パレードでした。ビー・ジーズBEE SEESの名曲《恋のナイト・フィーバー NIGHT FIVER》に合わせて、ボックス・ステップ、スケーター、ソウル・ステップ、チャチャ、ハマ・チャチャ、ソウル・シーシー、ムービン・ステップ、バンプ、ハッスル、セックス・マシーン、ドゥー・イット、ファンキー・ストリート、バス・ストップ・・・46歳以下の人は、何のことか分からないでしょうね。これらのステップはジョン・トラボルタの名映画『サタデー・ナイトフィーバー』の大ヒットで始まったディスコブームの時代に、私たちの世代(今は中年世代)の人間が青春をかけて、踊っていたものです。今は「ディスコ」と言わずに「クラブ」と言うそうで、一体この番組がどういう意図で作られているのか良く分かりませんが、ともかく25分間楽しめました。「おやじダンサーズ」という4人組も出て来ました。頭が薄くなっていて、外見はいかにも「おじさま」という感じの人たちが、ちゃんと上手く踊っていたので、そのギャップに思わず微笑んでしまいました。「すごい世界」を垣間見てしまったような気がします。番組が終わった後で、ビー・ジーズのLP『ビー・ジーズ グレイテスト・ヒッツ』をかけながらこの記事を書いています。2枚組みのLPなのですが、《ジャイヴ・トーキン JIVE TAKIN'》、《ユー・シュッド・ビー・ダンシング YOU SHOULD BE DANCUNG》、《ステイン・アライヴ STAIN' ALIVE》、《モア・ザン・ア・ウーマン MORE THAN A WOMAN》  などを聴くと、自分が不思議にも「モテた」時代がなつかしくなります。新宿でも六本木でも、何軒かのお店から「ゴールド・カード」を頂いて、金・土・日・祝でも遊びに来て良いと言って下さったので、いつもバイキング料理を食べに行っていました。煙草の煙がもうもうとしていて、埃っぽい場所でしたが、当時は私もヘビー・スモーカーだったので平気でした。42歳で禁煙に成功し、それ以後は全席禁煙の店しか入らないため、踊りには行けない(と言うより、今は誰も相手にしてくれないから踊りに行けない)から、この番組が再放送されるのを期待しています。

2005年12月30日
私は決してNHKの回し者ではありませんが、今日もNHKの番組に基づいて記事を書きます。ETV特集で「夜回り先生」こと水谷修さん(49)を、しっかり見ました。今まで、雑誌、ラジオ、テレビで水谷先生のことを知っていたけれど、今日は水谷先生には「鎮魂の踊り」を捧げたくなりました。これほど具体的に、自分の身を削って子供たちのために何かやれる人がいるのだ・・・ともはや「祈り」に似た感情を覚えます。「水谷先生、たまには良く眠ってください」「水谷先生、長生きしてください」「あなたがいなくなってしまったら、どうなってしまうんでしょうか・・・」と言いたくなります。かつて、ラウンジ・ピアニストをしていた時、渋谷に行くと(当時はチーマーと呼ばれていた)子供たちが怖くて、「らりっている子供に刺されでもしたら困るな・・・」と思って仕事場を銀座に移したくらいだから、水谷先生には無条件に手を合わせたくなります。宗教者というものが存在したとしたら、こういう人のことを言うんだなと思いました。水谷先生から見たら、私のやっているなんて「脳天気そのもの」で、2種類(音楽・保健体育)の教員免許が泣いている・・・ということになるでしょうね。私だって24年前に教育実習を体験するまでは、「物分りの良い、ディスコの踊りもバレエも教えてあげられる体育教師」を目指していたのですが、実際、「いじめ」とか「不登校」の生徒に直面した時、私には何も出来ませんでした。また、私も「夜眠らない大学生」だったけれど、OD(オーバー・ドーズ)という言葉を、今日初めて知ったくらいですし、リスト・カットなど全く無縁でした。六本木や新宿で「楽しく」踊っていた私には、この番組で出てくる子供たちのように「生きる」ということに対する絶望などありませんでした。今はどこかで立派なお医者様になっている加藤さんなどと一緒に、決まった店で朝まで踊り明かしていたけれど、夜の世界がそんなに悪いものだとも思っていませんでした。踊っているメンバーは、本当に踊りに専念していて、当時「ブラザー」と呼んでいた米軍の黒人アーミーに踊りを習ったり、「ソウル・トレイン」という深夜番組をまだ珍しかったビデオで見て研究したりしました。煙草は吸ったけれども、薬には絶対手を出しませんでした。とにかく今の子供たちは、私が遊んでいた時代と全然違うのだな、と驚きました。当時の様子は、長野県知事兼某政党の代表でもある田中康夫ちゃんが、『何となくクリスタル』で事実に忠実に書いているから、若い方はぜひお読みください。要するに、新宿や六本木で遊んでいても、そこを卒業すれば医者・県知事・翻訳者などにもなれる程度の「安全な」遊び場でした。今は、全然違うのですね・・・ともかく、水谷先生、一時でも長生きしてください。

2005年12月31日
海野弘先生から、海野先生のご著書をブログで紹介しても良いという旨のお葉書を頂き、先生のお返事が「・・・面白い展開を期待しています。」というお言葉で締めくくられていたので、さっそく新たな記事を更新することにしました。

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